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①神様はあらゆるリソースを使われる

 当ブログの前提となる考え方

見えない世界と、見える世界は一体であり統一体である

※1文鮮明真のお父様(以下、愛と尊敬と親しみを込めて「お父様」と表記する)の偉大さは、宗教と科学を統一的に説明できる真理を解明されたことである。お父様が下賜して下さった八項目の生活指針の中に、「家庭盟誓(かていめんせい)五番」というものがあるが、お父様の宗教的哲学思想には、人間の構造は、「目に見えない世界(心)と、目に見える世界(体)」の二元的世界の統一体という考え方があり、このような人間の構造を基に天宙(てんちゅう:目に見える世界と、目に見えない世界が統合された宇宙という意味)が創造されたと語られている。現代宇宙物理学においても、最新の研究では「目に見える宇宙」だけでは説明できない、宇宙を観測すればエネルギー的齟齬(そご)があることがわかっており、光と相互作用しない「何か」が存在しているのは間違いない事実が前提になっている。こうした事実を前提として観れば、宇宙にも「心」のようなものがあり得るのではということになる。


お父様が生涯かけて提唱された「宗教と科学の統一」或いは「神学と科学の統一」とも言い換えることが出来が、これに限りなく近づきつつあることを感じざる負えない。そこで当ブログでは、お父様の宗教的哲学思想の枠組みを使い、明晰的、分析的な観点で、今私たちが経験している感覚が、ただ単純な世界の「崩壊」と観るのか、崩壊とともに同時存在し進行している「新たな創造(再創造、崩壊と創造の混在)」と観るのかの世界線を提示したいという思いで書いてみた。

今回投稿した「神様はあらゆるリソースを使われる」において活用する手法は、「分析的イデアリズム」的手法ではあるが、私はこの手法の原点はお父様だと勝手に思っているので、※2お父様が下賜された「真理」を土台に、「分析的イデアリズム」的手法で、3回に渡って現在進行している国際情勢や起こっている現象の事実をプロットし、話を進めることにする。


目に見えないが存在する神様を主体とした「後天時代」の賢さを考えてみた

真のお父様の遺言【世界平和統一聖殿】
 堕落の痕跡のない正午定着、影が無くなる場で生活すべき時が来たことを知らなければなりません。そうしなければ天国の民になれません。途方もない通告であり宣言にもかかわらず、それを隣近所の死にかけた老人の遺言にもならない話と思ってますが、遺言の中の遺言を語っていることを知らなければなりません。(『御言選集』459-65、2004年7月10日)

家庭盟誓(かていめんせい)五番
五、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の統一に向かい、前進的発展を促進化することをお誓い致します。


賢さをどう表現するかはいろいろあると思われるが、この節の冒頭、NVIDIA社長兼CEO黄 仁勲ジェンスン・フアン氏の、AI時代における「賢さ」の定義を話されたものを先ずご紹介した。既に知性において人間はAIに劣っており、これからの人間教育の在り方まで問われる時代になった。原理的パラドックス的な観点で表現すれば、AIは私達人間の映し鏡であり、私たちの欠落した部分を映し出す鏡ということになる。更に拡大すれば、これから意識を高く持つ人たちが考えるだろうことは、「人間とは何か」ということであり、「人間」をどう定義するかではないだろうか。少なくとも、アベル的な上位の方々は今真剣にこの問題に取り組んでいる。お父様が示された人間としての生き方の正しい基準に、「正午定着」があるが、これはどういうことかと言えば、真昼の太陽を見上げれば、私の頭上の真っ直線状に太陽が私を照らしてくれている。その時私にはまったくの影が生じていない。このことから理解できるのは、神様をそのように仰ぎ見ながら、神様の御前で「良心(後ほど解説)」に嘘偽りなく生きよということではないだろうか。

このように神様に繋がった一体感覚が磨き上げられるなかで湧き出てくる豊かさこそが、私に全てを包摂可能なあらゆるもの、愛、喜び、知恵、勇気、決断力、インスプレーション、洞察力、霊肉認知能力等が備わってくる。もし賢さを知性だけに限定すれば、今挙げたものに裏打ちされた賢さになるのではないだろうか、当然私の中でもこれらは機能し、相互補完的に主体対象関係で作用される。そんな中で骨髄に染みる程感じさせられることは、多くの人達が待ち望んでいるものを唯一提示できるのは、お父様のみ言、すなわち「遺言(全てのみ言)」だけだと私は考える。

2020年ノーベル物理学賞を受賞された、イギリスの数理物理学者ロジャー・ペンローズ博士は、量子脳仮説で有名だが、彼の立てた仮説は、人間の脳のニューラルネットワーク末端上で、量子的挙動が機能し、肉体と肉体を超えた、肉体の外の世界(霊界、超意識)とが量子もつれquantum entanglementによって、霊界からとんでもない、ぶっ飛んだ何かが与えられるのではというものだったが、私はこの仮説を、人間一人一人の正午定着が進めば、神様はあらゆる可能な恩寵、恩恵、賜物を与えて下るということを、物理的枠組みを使って理論立てられた仮説であると勝手に解釈している。

ロジャー・ペンローズ博士は、英国王立学会(Royal Society)のフェローであり、スティーブン・ホーキング博士との論争は有名だが、そのテーマは、「物理学は見えない世界を説明できるのか(私の個人的理解)」だったが、ロジャー・ペンローズ博士の主張は、「説明できる」と断言し、「物理学が見えない世界を説明できないのは、説明できる枠組みがないだけで、無ければ作ればよいのでは」と語ったことは有名な話である。

又、「分析的イデアリズム」は、プラトンのイデア論を現在に引き継いでいる哲学分野であるが、この考え方の提唱者であるベルナルド・カストラップ氏は、人間の脳が捉えている世界を飛行機のコクピットの機器に例えて説明している。計器に映し出される様々な数値やデータは、速度や気象情報だったり、油圧や燃料計測のデータ等だが、それらは、飛行士が飛行機を目標に向けて安全に操縦する場合に必要な判断の目安であり、基準だったりするが、それらを見て判断し意志決定するのはあくまでも操縦している人間である。

この例えを人間や人間と自然界との関係にあてはめてみると、例えば、人間の肉体を飛行機のコクピットに、人間の心を操縦士に置き換えてみると、人間の認識する世界は、肉体が得た物理世界の情報を基に心が描いていることになる。人間が描いているものは、脳が描いているのではなく、大雑把に言えば心が描いていることになる。飛行機のコクピットに映し出される情報自体には本質的な意味はなく、意味を与えているのはそれを観ている人間の心ということになる。

又、身近な例を挙げれば、コーチングのベースにある考え方の基本は、※3「身体は、目に見えないが、身体感覚で明らかに存在することを実感する心の反映であり、私が見ている私の外の世界は、私の心を映し出している心の映し鏡である」という考えの枠組みに前提を置いている。繰り返しになるが、自己の心の投影が、外の世界をつくっていることになる。更に、この枠組みで世界を観れば、今起こっていることを俯瞰視(ふかんし)すれば、それは目に見えない心の様な世界(霊界、意識)が映し出されたものであり、時間と空間を超えて、善悪混在した集合的な意識世界(霊界)の反映であると理解できる。

※3少々理屈っぽくなるが、「見る」ことだけに限定すれば、私たちは「光」が反射したものを捉えて「ある」ことがわかるが、光は電磁波の一種で、可視領域はその一部分であることがわかっている。電磁波の可視領域外に「紫外」「赤外」が存在する。光より波長が短いものにガンマ線があり、長いものにマイクロ波がある。実は私たちが「見えている」と思っている世界は、電磁波という枠組みで言えば、存在全体のごく一部分にすぎないと言うことになる。因みに「波」は情報を乗せることが出来る。携帯電話、テレビ等は全て「波」に情報を乗せて送られてきたものを、私達はこれら機器を通して受け取っている。

※3また黄 仁勲ジェンスン・フアン氏が語っていた第一原理(真理)がデカルトの「われ思うゆえにわれあり」であり、これの私の理解の簡潔な要約は、「神様に内在する私は、神様を客観的(神様を客観するには、神様の外からの視点、観察が必要)に理解(認識、説明までも含む)できないが、神様を考える(思惟する)私は疑いようのない実体としてあり、私の純粋な精神(心)は神様の観念(神様の属性)の内にある。」というがしかし、残念なことはデカルトは心と体をわけた「物心二元論」を確立させてしまった。デカルトのこの考え方は、その後のヨーロッパの哲学や精神世界を結果的に固定化させてしまった。

お父様の遺言とヨハネの黙示録との関連性

真のお父様の遺言【世界平和統一聖殿】
 父母が亡くなる時に遺言として残したものは、子女が必ず引き継いで行わなければなりません。愛する妻や夫の遺言は、すべて行わなければならないのです。なぜですか、それは、地の世界でも永遠の世界でも、共通の原則であり規約だからです。この規約はどこでも適用されるので、そのようにしなければなりません。(『御言選集』97-160、1978年3月12日)


聖書Bibleの語源 日本聖書協会HPから
  • 「ビブリオン(biblion)」は、ギリシャ語で「本」「書物」を意味する言葉です。パピルス(紙の原料)を指す「ビブロス」の縮小辞に由来し、転じて聖書(Bible)の語源となったほか、現代ではビブリオバトル(書評合戦)や「ビブリオ(biblio-:書籍の〜)」という連結形として、本に関係する分野で広く使われています。

ヨハネの黙示録5章1節【新改訳聖書2017】

1、また私は、御座に着いておられる方の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。

AD90年頃(ヨハネの黙示録が書かれたのは、AD90年~96年頃と言われている)当時書き記した重要書物の多くは巻物の形式なっていた。巻物は、帯をしめ、結び目に蝋をたらし、印を押し封印した。ローマ時代この形式が最も使われていたのが「遺言」である。そこで私は「七つの封印」とは何か、封印をといたのは何方なのかの一致点を考えなければならないと強く感じている。

ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)は、大叔父であるカエサル(シーザー)の後継としてローマ皇帝に就いたが、これはカエサルの「遺言」によるものだ。ローマ皇帝アウグストゥスが絶大なる統治権力を持ち、ローマ帝国を支配できたのは、カエサルの「遺言」があったかだと言われている。

クリスチャン達(特にキリスト教福音派)の多くは、ヨハネの黙示録5章以降は、神様の裁きが書かれていると解釈している。従ってこれを「神様の裁きの決定事項」と多くの方が捉えている。またヨハネの黙示録第5章1節の記述には「それは内側にも外側にも字が書かれていて」とあるが、これも当時の巻物の一般的な形式であり目的は、「遺言」に書き加えられないようにするためである

「和合と統一の元初点とは何か」 から観た私自身の姿勢

「和合と統一の元初点とは何か」 第二回「安侍日」 2004年5月13日 麗水・清海ガーデンからの抜粋
 さあ、話をしましょう。きょうの題目は、「和合と統一の元初点とは何か」です。元初点です。言ってみてください。元初点。(元初点)。元初点とは何か分かるでしょう? 根源となり得る焦点とは何でしょうか。 さあ、知りたいと言う皆さんは、「知ることができる私だ!」と、そのように思いますか。私が一つ尋ねてみましょう。皆さんの心と体が闘いますか、闘いませんか。(闘います)。闘わないという人は、手を挙げてみてください。おお、一人もいませんね。闘うという人、手を挙げてみてください。
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 元初点です。麗水と順天が南北統一をする元初点になればよいのです。どうですか。(よいです)。全羅南北道がすればよいでしょうか、慶尚南北道がすればよいでしょうか。一度競争してみてください。
 それでは、慶尚南北も喜び、全羅南北も喜ぶその元初点は二つでしょうか、一つでしょうか。二つです)。二つです。(一つです)。この者たち、二つです! 二つです)。おお、二つです! 二つです)。私が負けました。
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  私の心と体は、いつ闘いを終えるのでしょうか。闘うのは、私の体も喜ばず、心も喜びません。いったい誰が勝てばよいと考えているのかと心と体に聞いてみれば、体が言うには、「うーむ、体が勝たなければならない」と言います。また心に聞いてみれば、「心が勝たなければならない」と言いますね。(はい)。それでは、いつ統一され、いつ一つになるのですか。この闘いを終えなければなりません。今、この時間に、その闘いを終えることができるという自信がありますか。ありますか、ありませんか。自信があれば、ずっと前に闘いをやめているでしょう。
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 それでは、どちらの側から平和を見いだしてあげなければならないでしょうか。体からですか、心からですか。どちらですか。心からですか、体からですか。それでは、おじいさんからですか、孫からですか。心が内的で、体が外的だとすれば、おじいさんが内的であり、孫は外的です。外的なものが内的なものを重要視しなければならないにもかかわらず、心の基準であるおじいさんが、孫たちが自分よりも良くなることを願うというのは、どこに焦点を置いているのでしょうか。すべて矛盾だらけの世界で生きていた自分自身が、すべての環境を整理して立つことができるその根本は、その元初点は、果たして何でしょうか。考えてみましたか。
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 では、皆さんの心の中で、平和を成し得る元初点がありますか、ありませんか。それも知らないではないですか。その元初点はどこですか。神様ですか。神様は見えません。自分の心も見えません。心を見ましたか。愛を見ましたか。命を見ましたか。人が「貴い」と言う、愛や命や血筋もそうです。貴いものは見えないのです。

和合と統一の元初点とは何か 第二回「安侍日」 2004年5月13日 麗水・清海ガーデンからの抜粋
 さあ、きょうのテーマは、「和合統一の元初点」です。それは神様です。神様に会って尋ねてみて、「そうだ!」とおっしゃれば、「宇宙を創造する能力のある神様が、今日、なぜ私たちの心の中でそのような作用をして、そのようなことができないようにしておいたのですか」と言えば、何とおっしゃいますか。神様が困るでしょう? 元初点を知らない神様が、どうして神様ですか。この世界は、この地球星だけでも大きいのですが、銀河系の十万倍以上もある大宇宙です。太陽系は大きいでしょう? 九つの惑星を中心として銀河系の中にあり、宇宙の象徴的標準になっているのですが、その銀河系の十万倍以上です。一千倍だとしても大きいのに、十万倍以上です。千倍だとしても大きいのに、十万倍以上だとすれば、どれほど大きいかというのです。
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 さあ、よく覚えてください。文総裁が発見した中で、歴史にない発見は何でしょうか。今回の(世界基督教統一神霊協会創立)五十周年記念式の結論が何ですか。良心が命令することに対して、神様に侍るように侍り、救世主に侍るように侍って暮らす人は、天下のどこに行っても引っ掛かることがありません。天の国の十二の真珠門が、さっと開かれます。自分が門の前に行けば自動的に門が開くように、十メーター、五十メーター、百メーター前に行けば、さーっと開くようになっています。
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 父母を父母にするのは、父母自体ではありません。父母が愛の主人の位置を占領するようにさせるのは、息子、娘です。息子、娘をもつことができなかった人は、父母がどのようなものか分かりません。そうですか、そうではないですか。(そうです)。「父母は立派だ」といって誇るなというのです。二人が愛し合って生んだ赤ん坊が、「うわん、うわん、うわん」と泣くその泣き声とともに、「私は父母になった」と言うのです。父母になったので、誰よりも子女を愛するというのです。自分の父母を越え、国の誰よりも子女を愛するのです。

私は、韓鶴子氏の「韓鶴子氏由来の独生女論」は到底看過出来なかったので批判をしてきたが、しかし、ブログ活動での主張の底流には一貫した考えがあり、「どちらが正しく、どちらが間違っている」というような二項対立的枠組みは無い。私は世界平和統一聖殿日本支部に所属しているが、私たちが正しく、あなた方間違いであるという主張は一部を除いては極力してこなかったつもりである。お父様から学んだ「和合と統一」を成し遂げるための、復帰摂理歴史における歴史的カイン・アベルの関係を通して学んだことは、神様の位置(親の位置)に立たなければ和合と統一は成しえないことである。なので「心を尽くし、思いを尽くし」て神様に祈ってほしいと、そのような考えのもとに私のブログ活動は不足ではあるが、理性的なアプローチとしての情報共有を心掛けて来たつもりである。冒頭でもお伝えしたが、人間は、「脳」が収集した客観的と思われる情報(情報自体真偽不明であり、正しさを証明出来ない)に対して、真偽の紐付けをし決定しているのは「心」である。心を覚醒すれば真実は神様が教えてくれるという確信があるのでお伝えして来たつもりである。

この節の冒頭に引用したお父様のみ言「和合と統一の元初点とは何か」は、歴史的に韓国内で対立してきた「全羅南北道」と「慶尚南北道」の和合と統一が南北統一を引導することになると語られている。その元初点を「根源となり得る焦点」と語られ、様々な文脈から理解できると思われるが、私は、人間が創発する起点の中心点や基点と理解する。一言で申せば「神様と血統で繋がった人間の良心」ではないだろうかという結論である。このお父様の「良心宣言」は歴史を変えた大きな出来事である。

このみ言には不思議な点があり、「良心」とは一般的に心の在り様である。更にそれは自身から外に向かっては、関係の在り様へも繋がる。例えば、人間関係を通じた夫婦、家庭、社会的人間関係や、それが拡大すると民族間、国家間の関係にまで影響を与えることになる。しかし、お父様は、同時に人間の「心」と「体」の関係にまで影響を与えるのが「良心」であると語られている。そのことによって、今まで学問体系において、私達が自明的に理解して来た人間自身の問題と、人間間の関係の問題は別なものとしての共通理解は、崩れ去られたと言っても過言ではない歴史的宣言が、この「和合と統一の元初点とは何か 」ではないかと思う。このことは何を意味するかといえば、次元の違う少なくとも二つ以上複数の歴史的問題は、お父様が語られ宣言された、神様が宿り働かれ、住まわれる人間の根源的中心点、「根源となり得る焦点」という意味での「良心」を持った「神人一体」の人間のみが解決出来るという歴史的宣言である。

1970年代後半に、当時エジプトとイスラエルの間で激しい争いがあった。中東戦争である。その戦争終結のためエジプトの英雄サーダート大統領は、イスラエル ぺギン首相へ以下の呼びかけをしたと記憶している。その結果、1978年にアメリカのジミー・カーター大統領の仲介のもとで、キャンプ・デービッド合意にこぎつけ、翌1979年には両国間に平和条約が結ばれた。

エジプト サーダート大統領はイスラエル ぺギン首相へ以下の呼びかけをし中東戦争を終結させようとした
「イシマエルの子(イスラム教)からイサクの子(ユダヤ教)らへ、今、再び神(親であるアブラハム)のもとへ帰ろうではないか。」
※記憶をたどって書いているが、確かこのような文言だったと思う。旧約聖書には、イシマエルとイサクは異母兄弟と記述されている。神様は両方愛され、それはイシマエルの母ハガルの物語として記述されている。サーダート大統領はイスラム教、ペギン首相はユダヤ教の両者は、一つになるため(和平締結)に親であるアブラハムの元に帰ろうという呼びかけである。2020年8月13日、第一次トランプ政権時トランプ大統領仲介の元、「アラブ首長国連邦とイスラエル国間における平和条約及び国交正常化」の名称も、アブラハム和平協定合意(アブラハム合意)であった。

尊敬する家庭連合食口の皆様。あなた方が抱えている違和感や不条理感は神様が与えた救済であり、お父様が犠牲的に行っている世界的行為の一断片であると私は確信している。

 家庭連合(旧統一教会)によるお父様の遺言の書き換え問題への対応

AIへのみ言教育

私が何故「旧統一教会によるお父様の遺言の書き換え」という章を敢えて入れたかと言えば、例えば、今中東での米・イスラエルVSイラン戦争(一般的な見た目上の、この戦争の定義)では、ピンポイントでイランの政府指導者幹部と革命防衛隊幹部が排除されているが、この排除のオペレーションにAIが使われていることは事実であり(詳細は割愛)、多くの専門家の間で指摘されている。この事実からわかることは、既にAIがある特定の属性を正確に把握出来、軍事オペレーションに組み込むことが出来る精度までAIの習熟のレベルが上がって来ていることを意味している。極端な言い方をすれば、高性能スマホに限定すれば、世界にある約12憶台強のスマホから、特定の属性を見つけることが可能である事を、私達はこの戦争を通して客観的事実として知ることができた。識者によっては軍事技術と民生技術の間には最大で20年位の差があると言っており、自分の身の回りだけ見ていたのでは想像できないが、いずれにしても、※3AI最先端技術が、軍事技術に転用されることによって、スマホが武器として活用された歴史始まって以来の戦争といえるのではないだろうか。


世界のハイテク企業は世界中のあらゆる情報をビッグデーターとしてストックしている。世界の事象を観る場合、携帯電話での会話やメタデータ、SNS等ネットワークに接続している情報を全て、当然このブログも含めて収集されていることを前提に持つべきと私は考えている。しかし、この収集段階では情報に「色」はついてはいない。なので、お父様の「真理」を書き換え、上書きした韓鶴子氏の誤った情報に対しては、カウンター情報を逐一出さなければならない。幸いAIプログラムの評価のベースは、※4数学なので、論理性や合理性で構築された公理や定理がベースにあるプログラムは、過去人類が評価した神学や哲学思想、あるいは、自然科学等の業績をあげた知識が全て網羅され、人間にとって有益になるよう学習されており、「韓鶴子氏由来の独生女論」等の非原理的な論理性や、原理的合理性を欠いた、人類の過去の英知とは全く関係のないものであることを、AIは瞬間見抜くことが出来るだろう。しかし、現時点では情報に「色」は付けられていないため、AIからのレスポンスは真偽不明の状態である。そのことを踏まえた私のブログ活動は、家庭連合をつぶすための活動ではなく、正しい情報をネットワーク上に流さなければならないという思いも加味したブログ活動を不足ながら行ってきた。つぶすかつぶさないかの決定は、霊界におられるお父様の決定の領域にあると私は理解している。


「天地人真の父母様」を考える


韓鶴子氏が心においても、体においても自らの意思と選択で、お父様の相対(縦的には対象の位置)の位置から飛び出したために、原理的文脈で言えば、神様の直接主管圏から、間接主管圏(原理結果主管圏)に転げ落ちたと観るのが妥当で、神様もお父様も、たとえ韓鶴子氏の言行が怨讐的行為であったとしても、「地獄解放と天国開門」までされたお父様は、韓鶴子氏を誰よりも信頼し愛していたと私は確信している。しかし、韓鶴子氏自らお父様を完全否定し、排撃した位置に立てば、韓鶴子氏と「韓鶴子氏由来の独生女」信仰に染められた教会組織を保護することが出来ない。保護すれば「韓鶴子氏由来の独生女論」、聖母信仰と母子礼拝を認めたことになり、お父様ご自身も勝利した位置を捨てることになるのではないだろうか。これは創造時、堕落した人類始祖アダムとエバと堕落した天使長圏を捨てるしかなかった神様の立場を思い起こしていただければ、原理的合理性で理解出来るはずだ。私は崩壊の背景をこのように観るのが妥当と考えている。

「牢獄」に囚われている韓鶴子氏にお伝えしたいのは、あなたが屈辱的な評価を下したお父様における「牢獄」の意味と位置は、人類始祖の堕落直後の無原理圏の位置と学んだ。お父様は「七死復活」の牢獄からの復帰は、必ずみ言から始められた。ダンベリーでの神山威氏と過ごした牢獄生活は有名であり、そこでお父様は涙しながらかってご自身が語られたみ言に、お父様自ら侍り徹底した為に生きる生活を実践され、囚人さえも愛で屈服し復帰した関係性を築かれ、地獄である「牢獄(無原理圏)」を「天国」に変えられたその関係こそが、その生きざまこそが、サタン不可侵権となったので、サタンはお父様を殺すことが出来なかった。この原理は普遍的真理である。私の韓鶴子氏にお伝えしたい願いは、処世術ではなく、お父様のみ言で復活して頂きたいことである。

更に、上述したお父様と韓鶴子氏の関係を形式化した文脈で表現すれば、主体と対象の関係は、主体は対象を予定し、対象は主体が前提の関係である。更に主体は対象を包摂し包み込もうとし、対象は主体に内在(主体的に包み込まれようとする)しようとし、主体の観念が自己の思考の中心になる関係。そのような意味での内在の位置は、主体を客観できない。この関係が形成されれば、縦的関係においては齟齬そご(コンフリクト等)は無く、あるのは縦的差異である。差異は必ずそれをうめようとする宇宙の力(神様からの力)が生じ授受作用が生じる。この枠組みを、お父様と韓鶴子氏の関係で形式化すれば、お父様は韓鶴子氏を予定し(なのでお父様はご自身を「父母」と呼称された)、韓鶴子氏はお父様が前提である。韓鶴子氏はお父様に内在し、お父様の観念の中で思考することを通して自己実現できたはずが、しかし、お父様の外へ飛び出し(他の存在に内在してしまった状態)、神様と一体化したお父様を客観したとするなら、神様以外の堕落圏に転落し、その結果生じてしまった(原理の自立性と主管性によって)観念(サタン的、反キリスト的)の中で思考し続けるしかない。結局夫婦と家庭(或いは教会と言い換えもできる)の中に、神様とサタンの分裂した「二元論的父母観」をつくり出してしまった。更に、「天の父母様」という「神様に名前を付けてしまう」結果を生じさせてしまった。神様に名前を付け固定化してはいけない、神様を人間が限定し規定してはいけないというユダヤ教、キリスト教の戒めさえも破る結果を招いてしまった。それは神様に人間が作ったあるイメージを人間が勝手に被せ、固定化してしまう結果を生じさせてしまう(ギリシャ神話の神々、偶像等)。お父様は様々な呼称で神様を呼ばれた。それは語られる目的とテーマと文脈に相応しく、歴史の迫害に耐え、鍛えられて来た伝統的呼称で、お父様の愛に満ちた神様への呼びかけであったと私は理解している。

その上で私の「天の父母様」という呼称の固定化に対する推論は、※6神様の一属性(二性性相)を持ってきて、形式的に神様の呼称にしたのではないのか、更にそれに加えて、「父母」と入れたのは、「父」はお父様を想起させるが、そこに「母」を入れることによって、ただ単純に「母」、韓鶴子氏を想起させたかったのではないだろうかというものである。そう考えると韓鶴子氏はただ単純に自己実現をしたかっただけではないだろうか。神様の属性は複数あり、神様はそれら属性の統一体である。お父様の「天地人真の父母」とは、統一体としての神様の肉体的現れであり、天地創造以来初めて創造目的、創造理想を完成された人間であり、人類のあるべきモデルという意味である。神様、人間、万物の関係はそんな浅いぺっらぺっらな関係ではない。そして更に懸念されることは、神様の他の属性、「唯一」、「絶対」、「永遠」、「不変」、「普遍」等で神様の御名を呼称する時はどうするのだろうか。

※6このことが何故最悪なのか、14世紀キリスト教内で巻き起こった「普遍論争」を思い起こしていただければわかりやすい。それまでのトマス・アクイナス等が主張した「信仰」と「理性」の一致を、オッカムはキリスト教神学から削ぎ落し(「オッカムの剃刀」で有名)、存在の背後にある本質的実存を削ぎ落し、ただ単純に言葉だけの、背後にある深い意味を削ぎ落し形式化してしまった。結果的に、信仰と理性を分離させ、合理性を信仰の上に置く素地をつくってしまったと私は理解している。よって中世以降この合理性がヨーロッパの精神世界の中核を担うことになり、やがて共産主義が生まれる遠因となったと私は考えている。「啓蒙enlightenment」という言葉は、「理性によって暗黒に光が灯された」という意味。「中世暗黒時代」は、中世に生きた人たちが、自分たちをそう呼んだのではなく、中世以降の人たちが勝手に理性に重きを置きそう呼んだのである。

その上で韓鶴子氏にお伝えしたいのは、教会組織を自らのアイデンティティー実現の場にしてはいけない。お父様が下賜された「愛天、愛人、愛国」は、人格形成と国家形成の要諦である。サタンが紐付いた狂った人間が、国家形成に参入したのが、今の結果に繋がっているということを心からお伝えしたい。

「天地人真の父母様」とは継続的、持続的存在状態beingである


「天地人真の父母様」とは本質的には存在状態を表す言葉である。そいう意味から言えば、形式的な呼称でもなくタイトルでもない。その状態になっているか、その状態になり続けられるかが重要である。そもそも原理は暗記科目ではないし、人から聞いた話でもない。一義的には自らに適用すべきものである。み旨とは、自ら「成る」ことを旨とするものと私は理解している。2000年前イエス・キリストがルカの福音書10章25節~37節で語られている本質的内容は、イエス・キリストが試みる者たちに対して示された教えは存在状態のことである。決してスローガンや目標や理想といったものを、意味も分からず唱えたものではなく、「貴方達はそのように成っているのか」という状態の問いかけを言っているのである。

「父母」とは一般的には子がいる親のことである。お父様が確立された人間の内面の状態は、「天地」を合一した親の本来的愛を中心とした状態の確立と私は理解している。ここでいう「天」とは神様であり、「地」とは「人間+万物(自然界)」である。以前も申し上げたが、お父様のみ言、「愛」「生命」「血統」の枠組みで観れば、「夫婦」、「父母」の一体化の親密度は、肉体的なものではなく形式的なものではない。心の深い所から湧き上がる「情(愛)」をベースとしたものである。

お父様は以前、四位基台の図を描きながら「夫婦が一つになった基台の上に、神様の愛が垂直に90度に降りてくる。」と語られている。夫婦一体の存在状態になれば、夫婦は無条件に意識せずとも、神様から降りてくる下降的神様の愛を垂直に受け、真直ぐに、垂直に子女を愛する情が心の深い所から湧き上がってくると語られ、「何故父母は子女を無条件に愛することが出来るのか」の原因を原理的合理性で説明をされておられた。そして、「このことだけでも神様の存在証明が出来る」とまで語られていた。家庭に神様が降りてくるための先有的条件は「父母の愛による一体」である。

お父様と、※7韓鶴子氏の「一体化神話」の崩壊は、2019年の裁判での証言記録を観れば、客観的にそれが証明されたことを身体感覚で理解できるはずだ。もしそれでもお父様と韓鶴子氏が一体化していたと主張されるのであれば、自らの夫婦の一体化の状態をもう一度お父様のみ言を基に検証すべきではないだろうか。何故なら、分析的イデアリズムでは、外の世界がどう映るかどう見えるかは、自らの心が決めているからだ。外の世界は自らの心の反映であり写し鏡として観るからだ。尚、「一体化神話」の崩壊の事実を勇気と決断をもって公的にはじめて明らかにしたのは、二代王様であったことを私達は忘れてはいけない。これは歴史的な事件である。

そして韓鶴子氏は以前、お父様がみ言を語られている途中に、退席されることがしばしばあったが、その理由について以下のような趣旨の話をされていた。「まだ成してもいないことを語られることに私は耐えられなかったのだ」と正確性は欠くが、このような内容だったと記憶している。しかし、これは大きな誤りである。お父様が確立されたのは、「天地人真の父母様」の存在状態であり、これはお父様のご路程においては一貫して貫かれており、蕩減復帰路程においては微動だにしなかったはずだ。天一国が何時出来るかの問いは、復帰された人達が何時成すかにかかっている。即ち私達であり、私達が何時するかしないかで決まる。お父様が重要視したのは存在状態を如何に成すかであると私は理解している。イエス・キリストもお父様も「父母」として来られるというのは、救い主として来られる主は必ず地上で結婚し、家庭を築かれることが予定されているからである。旧約聖書の預言も、黙示録の預言も成されることが予定されており、予定されるということは、その前提となる状態が既に出来ているということだと私は理解している。

「貧しい、貧しい」と嘆いている人は、貧しさの原因を自分の外にあると思い込んでいるが、貧しさの原因は自分の心の貧しさにあり、自身が無自覚に貧しさを進んで選択し、貧しい心の状態が既に築かれていることになる。そのような人に神様は豊かさを運んで与えることは出来ないというのが原理である。お父様は「興南監獄」から何故生きて出られたのかの説明を、「12人以上の弟子を復帰したからだ」と語っておられた。イエス・キリストは3弟子12弟子を生きている時に立てられず、ご聖婚出来なかった。結果的に創世記「エデンの園」を実体で再現出来なかったので、イエス・キリストを守る基盤をつくることが出来ず十字架に掛けられ殺されてしまった。お父様も、朝鮮半島南北で準備されたキリスト教の基台が崩れ、イエス・キリストの十字架の道を行かれた、それが「興南監獄」路程であり、それは「死」を意味するご路程であった。

生きて十字架を超える道を原理的合理性から考えたならば、イエス・キリストが成すことが出来なかった崩れた弟子の基台を立てることに勝利すれば、生きて十字架を超えることが出来るというのである。そこでお父様は「強制収容所」という、現代に生きる私達には想像することが出来ない飢餓的状況と苛烈な強制労働の中で、ご自身の食事を半分にし、その半分の食事がご自身に与えられた食事の量であることを当たり前のこととして真心から受け止め、残りの半分を他の囚人に分け与えて行かれた。ある時『同房の囚人のポケットに、お父様に差し入れられた「はったい粉」を入れておいた時、それに気づいた同房の人は、「これはきっとお父様であると気付き」、お父様が何食わぬ顔で房に戻られた時、その同房の人と目と目が合い、互いにかわす言葉は無かったが、お互いが涙した。』というみ言を伺ったことがある。労働においても率先して他の囚人よりも遥かに多くの過酷な労働を成し遂げられ、共産軍から課せられた責任量を果たすことが出来た。このような姿に他の囚人は屈服し、又、関係においても、愛の関係を築かれたので、結果、地獄のような強制収容所で、天国の様な愛の関係の場を築き、地獄を天国へ変えた。いわゆる「サタン不可侵圏」をつくってゆかれたので、サタンはお父様を殺すことが出来なかったという説明である。ではお父様はこのようなことを何故出来たのであろうか、蕩減復帰原則の理論上そのように生きなければならないので、心の状態がどうであったとしても、義務的に使命感を持っていたから出来たのだろうか。そうではなく、私はこのように考えている、お父様ご自身の中に愛の勝利が出来る存在状態が既にあったからだとう理解である。



ルカの福音書10章25節~37節【新改訳聖書2017】

25、さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」

26、イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

27、すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」

28、イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

29、しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」

30、イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

31、たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。

32、同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

33、ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。

34、そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。

35、次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

36、この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」

37、彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

しかし、根本にある「韓鶴子氏は何故このような言行に至ったのか」の経緯は、先ほども申し上げたように、ご本に聞かなければわからないので、これからの人類救済のためにも是非悔い改めの土台の上で明らかにして頂きたい。その上で、現段階で推論できることを申し上げる。次回「②神様はあらゆるリソースを使われる」へ続く。

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