注目の投稿

十字架は、キリストの情熱による驚異的選択である

ルカの福音書19章41節~44節【新改訳聖書2017】

41、エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

42、「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

43、やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、

44、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

ローナ・バーン著「奇跡のエンジェルコンタクト」からの抜粋
  •  数百人にものぼる天使たちが、イエス様の周囲を円で取り囲んでいました。大天使たちは、内側のサークルを形成し、それがいちばん彼に近い所でした。気が遠くなるくらいの無限といえる数ほど大勢の天使たちがそこにいるのを、わたしは目にしたのです。天使たちもわたし同様に、あの時イエス様をきっと助けたかったに違いありません。あの時の天使たちの気持ちが、わたしにはよく伝わってきました。
  •  わたしはあの時、ミカエルに言いました。「あなたたち天使全員が、この出来事にとても心を痛めているに違いないよね..........」
  •  そう言ったあとミカエルを見上げたとたんに、彼はこう言いました。「ローナ。我々は、愛のみの存在なのだから、傷つくことはない。たとえ神が自分を見捨てたかのようにイエス様が思えたとしても、ここにいるすべての天使と大天使たちは、彼に力を与えるために愛を注ぎ続けているのだ。彼の父である神様はここにいるすべての大天使と天使たちを遣わして、自分がどんな存在であるか、さらには、人類のためにこれを彼がやり遂げねばならないことを、イエス様に思い起こさせているのだ。神様が創造したすべての天使たちは、もうとっくにイエス様のために身代わりなることを願い出たのだ。私自身もそうしたが、神様はそれをお許しにならなかった」
  • 「イエス様には、天使たちが見えるの?」とわたしが訊ねると、「いいや、ローナ。彼には我々の姿は見えない」とミカエルは答えました。この言葉に私は内心

 キリストの十字架は受難ではない、選択的行為だった

文鮮明真のお父様(以下、愛と尊敬と親しみを込めて「お父様」と表記する)が語られたイエス・キリストの降臨の目的は、十字架につけられ死ぬことではなかった。生きて結婚し、家庭を築き、その家庭を中心に神様の理想の国をつくることにあったと語れた。そして、聖書に記述されたイエス・キリストの十字架に至るまでのご路程は、公生涯において二度に渡り、神様と合意し変転させているとも語れた。それを前提にしたイエス・キリストの十字架に対する私の理解は、「十字架は、再臨主のためのイエス様の驚異的な愛による勝利の記録」だという結論である。

その上で、参考文献として、冒頭引用させていただいた「奇跡のエンジェルコンタクト」からの抜粋は、著者であるローナ・バーン女氏の体験的記録である。彼女は、アイルランド出身の敬虔なカトリック教徒であり、世界で様々な人道的活動をされておられる方です。私がこの著書を通してご紹介したいことは、イエス・キリストが十字架にかけられた瞬間を、天使ミカエルを通して見せられた詳細な場面がリアルに描かれているということである。ただし、この内容を信じるか信じないか信憑性の問題はあるが、私は、ローナ・バーン女子が観て実感した内容を、彼女は著書に詳細にかつ忠実に書いていると観え、そしてお父様のみ言とも一致している部分が多くあるので、「奇跡のエンジェルコンタクト」の内容には心から同意する。そして、私が最も注目したのは、「神様はイエス・キリストを十字架からお救いになられなかった」ということである。

お父様の語られた創造原理のみ言によれば、「神様は、人間の責任分担に関して干渉されない(原理講論(2)関節主管圏)」と記述されている。また、上述したように、イエス・キリスト本来の降臨の目的は、神様の血統に人類が繋がるための、肉体をもって地上で結婚し家庭をつくることにあったとも語られている。これらを前提にイエス・キリストのご路程を観れば、福音書に記述されている「変貌の山での、モーセとエリヤとの会談」以降の「十字架の預言」と「復活の預言」の変転理由は、「イエスの栄光の姿を示すため」というキリスト教の解釈だけでは十分に説明できていない。むしろ十字架は、イエス・キリスト本来の目的を、生きて果たすことが困難になった中で、その使命を再臨主に引き継ぐための重大な、肉体を持って必ず完遂させなければならなかった、過去を振り返れば苦渋を超え、未来を見れば希望と喜びの情熱によって行われた、絶望を超えたイエス・キリストの驚異的選択であると観ることができる。

マタイの福音書17章1節~17節【新改訳聖書2017】

1、それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

2、すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

3、そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。

4、そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

5、彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

6、弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。

7、するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。

8、彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

9、彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」

また、「十字架はイエス様の選択だった」ことは、イエス様ご自身の行動からも、聖書の記述からも読み取れる。イエス様は、エルサレムでの迫害が強くなるに従って、「ツロ」「シドン」とパレスチナ北方へ避地伝道を展開されるが、突然きびすを返すように、エルサレムへ向けて進み始めたイエス様は、迫害が待ち受けるエルサレムへ入城された。その行動は、生存本能から見れば合理性を欠く不可解なものであり、キリスト教聖書解釈により、「イエス様の十字架は、人類の罪の贖いのための供え物」という「血の贖罪」解釈が生まれた。私は、この解釈は、本来のイエス様の降臨の目的を欠いた、十字架に焦点をあて、十字架の結果からのみ導き出された、不十分な解釈だと理解している。

マルコの福音書7章31節【新改訳聖書2017】

31、イエスは再びツロの地方を去り、シドンを経て、デカポリス地方側のガリラヤ湖へ来られた。

ルカの福音書13章33節【新改訳聖書2017】

33、しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』

マルコの福音書8章27節【新改訳聖書2017】

27、さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」

繰り返し申し上げるが、キリストの十字架は「受難」ではないと断言したい。受難から受ける印象は「受け身」であり「受動」だ。その心根には「無ければ良かった」、「避けれるなら避けて行きた」いし、もっと言えば「できればやりたくない」し、「不本意ながら災難を受けてしまった」という心から来る立場であり姿勢ではないだろうか。十字架に対しての私の理解は、お父様のみ言や、ローナ・バーン女子の「奇跡のエンジェルコンタクト」を読めば、当時のイエス・キリストが立たされた状況に思いをはせれば、最も信頼していた人たちからの絶望的な裏切りに遭い、困難な状況の中での振る舞いではないことがわかる。

本来想定しない災難と出会ってしまった結果の十字架であったとするならば、それ以降の歴史は、全く違うものになっていたであろう。イエス・キリストがもし仮に、心に越えがたい困惑を抱えたままであったとするなら、十字架はあのように超えられなかったはずだ。それは、悲惨極まりない絶望的な心情的位置を、完全に克服しなければ、十字架を愛と赦しで超えることは出来なかったということである。痛みと苦しみを単純な忍耐や我慢だけで超えて行こうとすれば、そこには隠すことができない怨みが残るだろう。怨みを残して復活による救いは無いはずだ。イエス・キリストが鬱憤(うっぷん)を超えることができず、遺恨(いこん)を残されたとするならば、キリスト教は存在しないはずだ。怨みからは復讐しかない。ヨーロッパの出来事の背景には、キリストが超えた愛によって怨讐を超え愛そうとする姿は存在せず、恐ろしい残忍な復讐の歴史が刻まれている。イエス・キリストを愛しているならば、私は上述した「キリスト意識」を自らの心の深部に招き入れ、怨讐を愛された、イエス・キリストとお父様の所詮「真似事」レベルであったとしても、その程度の実践力を最低限持つべきだと、今更ながら強く感じている。

ローナ・バーン著「奇跡のエンジェルコンタクト」からの抜粋
  •  わたしは、まっすぐイエス様の顔を見つめていました。ふたりの兵士が彼の腕を掴んだ時、彼の目は涙で潤んでました。彼が抵抗するとでも思っていたのか、ひとりの兵士は彼の腕を抑え込んでいました。そんな力がまだ彼に残っているとでもいうのでしょうか。彼がどれほど衰弱しっきているのか、わたしには一目瞭然でした。彼は青白くなっていました。顔には血色がまったく見られませんでした。もう一人の兵士は、彼の手首を掴んで拳を広げました。
  •  ふたりの兵士は互いに目を合わせてから、とても慈悲深い声で彼に囁きかけました。英語を話していないにもかかわらず、わたしには彼らの言葉が理解出来ました。それでつい、わたしは心打たれました。「どうか、わたしを許してください。二回だけ打ち込むので、痛みが少し軽減できるはずです」と、ふたり揃ってイエス様にそう呟いていたのでした。
  •  彼の腕を抑えているほうの兵士に、イエス様は目をやりました。そしてその次に、彼の手首を押さえている兵士を見つめました。彼から愛があふれ出して、その愛が兵士たちに触れるのが私には見えました。言葉など必要でありませんでした。
  •  落ち着きと安らぎが、兵士たちにもたらせました。それからひとりの兵士が金槌を手にし、もう片方の手に釘を持ちました。二回打つと、彼の肉体を貫通しました。
  •  わたしが十字架の上に横たわる彼の顔を見下ろしている時、ミカエルが私の手を握ってくれました。天の父はなぜこのようなことが起きるのを許されるのか?

 断食における「食べない」と「食べれない」の違い

私はブログ活動の中で再三申し上げていることの一つに「心が体に与える影響」がある。縦的な関係においては、「心」が主体で、「体」が対象であることを、お父様は再三語られている。今巷では、「不食」が流行っていると言われているが、「不食」を励行されている方々の主張を聞けば、健康の源は「食べないことにある」という逆説的でもあるが、しかし、最先端医学でも不食の研究がされているが食べないことが健康に繋がる理屈が発見されている。このような、不食を実践されておられる方々が共通に強調されていることの中に、「意識の重要性」がある。

恐れと恐怖を超えれば神様が働く

ではこの方たちはどのような意識状態を言っているかといえば、「食べない」という「能動的」に、「主体的」に選択された意識状態を特に強調されている。では、これとは逆の「食べれない」という意識状態は、「受動的」な「没主体的」な非選択的な姿勢や態度である。この意識の差には、「死」の危険性を回避させる可能性があり、肉体を「生」に向かわせるための、何かを与える影響が大きいことがわかっている。「食べない」という意識状態は、「死」を超えられると言っている。この心か肉体に与える影響の現象を解説している人の説明の中に、人は、「食べれない」という「受け身的状態」が招く心的ストレスによって、体が影響を受け、最悪死に至らしめるという理屈を述べていた。この心的ストレスに関連した話しとして、ちょっと違った視点からではあるが、ベテラン スキューバーダイバーとしても有名な作家の百田尚樹氏は、スキューバーダイビングで最も多い死因は「窒息死」と言われているが、亡くなられた方々の酸素ボンベを調べてみれば、「まだ十分な酸素があった」と語っており、では何故亡くなられたのかの百田氏の個人の意見だと思われるが、その原因は「心的ストレス」だったと語っておられた。

聖書には、「恐れるな」とい神様のみ言が365回記述されているという。それは、アブラハム、ヨシュア、ザカリア、マリア....等に臨まれ語られている。神様は、私の置かれている状況も、私の心の弱さもご存じで、まだ何も成されていない、何も起きていない、何も遭遇していない中で「恐れるな」と語られた。これに関しての私の理解は、私を信じて下さる神様からの確認の口添えであり、「もうほとんどのことは父が行った」なので「恐れるな」という意味だと考えている。

人生の目的は霊の成長にある

人間は死んで終わりではなく、死んだ後も自我は残る。その自我は肉体を持ってどのように生きたかが前提となる。死後は生きている時につくられるということである。生きているときに神様がわからなければ、死後の世界でもわからない。霊の成長は、愛と真理と善行による霊肉の授受作用によって成される。そのような生き方が原理講論に記述されている。これは「原則(原理)」の話であり、その場その場の「状況対応(適応)」の話しではないし、処世術(世渡り)の話しでもない。

宗教の「教義」や「教理」と、そこから生成される意識や信念体系には限界があり、自身の思考までも含めた行動の一挙手一投足までは書かれていない。例えば、2023年10月7日ハマスがイスラエル領内に奇襲攻撃を仕掛け、パレスチナ・イスラエル戦争が勃発したが、時間の経過とともに見えて来た事実は、この戦争の背景にあるのは、聖書的価値観の遂行であり、トーラやタルムードから生成された意識や信念体系であるのではという疑義である。イスラエルは、テロリスト排除を名目に、パレスチナやガザにおいて、八万五千トン以上(広島原爆の5倍)の二千ポンド(一トン)爆弾を投下したと言われており、あの狭い地域に無慈悲に投下し既に7万人以上の死者が出ている。当然イスラエルの犠牲者も出ているが、パレスチナの犠牲者の約八割が子供と女性であともいわれている。二千ポンド爆弾の威力は、半径30m~40m以内での生存率は、ほぼゼロパーセントである。では何故残忍な行為に及ぶことができるのだろうか。旧約聖書には「聖絶」と言う言葉が記述されている(誤解を生むためこれ以上は書かない)。ユダヤ教、キリスト教の方々にも家族がいて友人や恋人もいるにもかかわらず、何故イスラエル国内においても、アメリカ国内においてもイスラエル国家を支持する人がいるのだろうか。イスラエル国内で世論調査を行った結果、国民の90%が戦争に賛成しているという報道もある。

レビ記27章28節【新改訳聖書2017】

28、ただし、人であれ家畜であれ、自分の所有の畑であれ、自分の持っているすべてのもののうちで、主に対して聖絶したものは、何であろうとそれを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶の物は最も聖なるものであり、主のものである。

29、人であって、聖絶された者はみな、贖われることがない。その人は必ず殺されなければならない。

しかし私は一方的なイスラエル非難はしない。歴史を振り返れば、第一次十字軍において、多くのユダヤ人が虐殺されている。エルサレムは血に染まり、歴史書には「死体から流れ出した血は、『足のくるぶしまで覆った』」と書かれている。エルサレム近隣において、虐殺と略奪が行われた。彼らの怨みは余りにも大きいく、キリスト教とローマ(後のヨーロッパ)に対する怨念は深い。なので彼らはキリスト教を嫌い、十字架を徹底的に排除する。例えばその象徴的なものに、イスラエルの救急車には「赤い十字」は無く、描かれているのは「赤い六芒星」だ。では何故キリスト教国家であるアメリカとイスラエル国家は一体となるのかを考えなければならないと私は考えている。

お父様は、堕落した人間には生心(せいしん)がないと語られている。では生心は如何にしたら人間の心の中につくられるのか。端的に言えば、神様の愛の受肉と、真理の追求と善行であるが、本来人間の心は、神様に繋がる「生心」と、肉体の保護育成(一般的にはホメオスタシス⦅恒常性⦆)を司る「肉心(にくしん)」があり、大雑把に言えば、これら「生心」と「肉心」の主体対象関係における授受作用によって※1「良心」が生成されるようになっている。では先述した何故泣き叫ぶ多くの子供や、女性を無慈悲に排除できるのだろうか。良心は無いのだろうか。いやそうではなく、彼らは良心を神様に繋げることを怠り、歪な宗教的価値観や、歪な信念体系で覆い隠しているだけだと私は考える。

神様に繋がった良心(生心と肉心の主体対象関係の統一体)から、真の主体性は生成されると私は理解している。エマニエル・トッドはヨーロッパもアメリカも道徳規範のベースにあるべき宗教、哲学の本質が崩壊していると語っている。社会学者宮台真司氏は、マックス・ヴェーバーMax Weberを評して「力の流れの思想家」と語っておられた。宮台氏の解説によれば、マックス・ヴェーバーの「鉄の檻」とは、人間の本来の心の奥底から湧き上がってくる「力」が失われた状態であり、それは、「組織のルール」「法律」「損得勘定」に縛られるあまり、「自ら切り盛りする力が削られた状態」であるとしている。「鉄の檻」の中には、「没主体」が存在し、結果組織依存が極まって行く。近代化と称されるのは「合理化」であり、この合理化は、「計算可能化」を人々に植え付け、「計算可能性の中だけで振舞う」メリトクラシーmeritocracyが主流価値観になると、マックス・ヴェーバーは100年以上も前に警鐘を鳴らしているとしている。

「鉄の檻」は我々の身近でも起きており、組織としての家庭連合崩壊の原因は、まず第一の原因は、韓鶴子氏のお父様の排撃であるが、王権に侵入し、韓鶴子氏を利用し、自身の保身と、過分な肉欲を優先した結果、組織腐敗によって引き起こされたのは間違いない事実であると私は考えている。お父様が下賜して下さった「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」の本来の意味を一部のステータスシーカーStatus Seekerらは偽り、組織維持に悪用し、彼らは、お父様のみ言の探求を怠り、良心を塞ぎ、教会文化から知的誠実さえも欠落させてしまった。このような家庭連合上層部の状態にも悪の歴史同様の、摂理史的「型」が観られると私は考えている。組織内での主流的価値観は、「如何に実績を上げて自らの評価を上げるか」にあり、聖書的文化やお父様のみ言の価値観の遂行は既に消えている。長年組織で婦人部長をやっていた家庭連合所属の友人の妻は、上からの圧力により、今もPTSDで苦しんでおり、寝言にまで口にするくらい病んでいる。彼等には「良心」は無いのだろうか。


 キリスト意識(キリストの実存性じつぞんせい)を心に纏う

冒頭おかしな話をするが、韓鶴子氏は、実在じつざい(ここでは、単純に物理的に、客観的にただある状態を言っている)する、確かに実在している。それは、自然界が実在し、人間社会や社会システムが実在しているのと同じで、私達が日常経験し、一般的に私たちが「本当にある」と感じている世界観から言えば、実感世界の一部分であるに過ぎない。何を言いたいかとえば、見た目上「韓鶴子氏は普通の人間」であるということである。また、その人間に様々な「意味付け」や「意義付け」を行ったとしても、信じなければ意味や意義は感じない。

そこで思い出してほしいのは、私達は、「お父様を愛したので、韓鶴子氏を愛することができた」ということである。ここには「順番」と「方向性」がある。要するに「流れがある」ということである。韓鶴子氏が私たちにとって良い意味においても、悪い意味においても特別な存在としてあるのは何故か、それは、再臨のキリストの花嫁として、再臨のキリストから選ばれた特別な存在だからである。即ち、聖書に預言された存在として、主の花嫁として再臨主から選ばれという「流れ」があり、主から生まれた「流れ」の中で主と共に歩み、主から生まれたみ言の「流れ」の中で主と言行一致した方である故に、キリストの普遍的価値と合一した、キリスト意識を身に纏った実存体(普遍的キリスト意識を心に纏ったという意味)としての立場におられるからではないだろうか。であるならば、韓鶴子氏のどこを観たとしても、キリスト意識があなたの中にみなぎっていなければならないのではないだろうか。

だとすれば、統一家が分裂している中で、あなたがしなければならない内容は、おのずと見えてくるはずではないだろうか。アダム家庭とノア家庭の失敗によって神様との関係が切れ、親子、兄弟の分断された関係を修復する方として降臨されたイエス・キリストが十字架にかけられ、使命なかばでご聖和されることによってもたらされた中東の紛争を、特にノアの家庭以降の歴史を教訓にすべきではないだろうか。怨みは怨みを呼び、更に大きい怨みへと広がってゆく。

天聖経【2003年7月7日初版】第六章真の父母が伝授する世界と南北統一教本2230P
 二千年前、ユダヤ民族がイエス様を受け入れていたならば、イエス様はユダヤ教を基盤としてユダヤの氏族と民族を統一し、十二支派の子孫たちが住んでいたアラブ圏を統一していたことでしょう。さらに、イエス様の思想が中東地域とインド地域を経て極東まで伝播され、一方では、ローマ帝国と全ヨーロッパを挙握し、イエス様の時代に統一された一つの世界が成し遂げられていたことでしょう。最終的には、イエス様を中心として一つの新しい宗教文化圏を形成し、イエス様は世界の王の王にならなければならなかったのです。

では「キリスト意識とは何なのか」を自らに問えば(詳細は煩雑になるので控えるが)、神様に繋がる「全体性」と、物理世界に身を置く「個別性」とが、「愛」によって合一した超意識(堕落人間の意識と区別する上で敢えてこの表現を使った)ではないだろうか。特にAIの登場によって、「人間」と「機械」の境界線が明確になってきたので、私達が人間を深く考えるようになってきているようにも思える。宮台真司さんがおっしゃるには、小学生に「AIに対してどう思うか」を聞いた問いに対するの反応は、「面白くない」という答えだったそうだ。それは何を意味するかといえば、「AIとは遊べないからつまらない」なのだそうだ。要するに、AIには「体がない」ので、体を通しての「経験ができない」ことだと言っていた。人間だけが唯一「心」と「体」があり、それらは繋がっていて、経験を通して感情が生成され、情緒が生成されるあるので、面白さが生まれる。

少し視点を変えてみると、哲学は、神学との関係においては、神学的な曖昧な概念や定義をより明らかにする(明晰性)使命があると考えている。中世の大神学者トマス・アクィナスは、「哲学は神学の婢(はしため)」と評価し、哲学を神学の下位に置き、あくまでも「神学の補完者」と位置付けているように思える。また、これとは反対に、論理実証主義に影響を与えたと言われる哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と言い切り、言論活動を終えてしまう。これは、先述した情緒の生成にも繋がる「人間の生の問題」、例えば「神様の実在」「人生の意味」や「死後の世界」等、物理的に観測できないものは、「言語化」「論理化」出来ず、特別な「意味付け」や「意義付け」は出来ない。なので「語れないことを語るな」「議論は終了ということにした」ということだが、そのようなものを、ただのプログラムに実装できるのか、端的に言えば「AIに意識を実装させることができるのか」、出来るとすれば、AIに「人格」を与えるのかという問題が将来出てくるだろう。

人は「語れない」ことや。「語りずらい」ことがあれば、焦って超越的手法に頼る(口寄せ、お告げ、憑依等)。これは人間にのみ出来る行為ではあるが、真偽を評価出来ない。しかし今は、お父様の出現により、人間の「心」「意識」の問題を、解決出来る「道」ができつつあることを感じている。原理では「人間」を明確に規定しており、上述したAI問題はすぐに解決できると考えている。

また、お父様から下賜された「氏族のメシア」という位置は、普遍的実存の話しであり、それを実在(実体)として何かしらの「メシアらしき霊肉の雰囲気を醸し出す」のは、なかなか難しいし。お父様が語られている「メシア」の実存性は自称では実現できない、「メシア」の称号は他称であり、天宙的である。わかりやすいのは、周りの方々が「貴方こそが、私達のメシア」と認定をもらう程に、家族、氏族を含めた他の方々を愛で屈服し、霊的に引き上げなければ、「メシア」にはなれないだろうと私は理解している。氏族レベルでのカイン・アベルの統一的編成は、観念ではなく実存から賜る「力」によって成されると信じている。そのためにもキリスト意識を心に纏い、力がみなぎり溢れ、私が「成す」のであるという真の主体性から成された決断によって、道は必ず開けてくると考えている。

私は、古い宗教は死んだと思っている。しかし、キリスト意識は残っている。古い宗教は死んだが、そこを種にし、超宗教的にキリストが接ぎ木した人達が立ち上がってきているのも実感できる。イエス・キリスト当時も政治は腐敗し、人心は乱れていた。イスラエルは、異邦人の王ヘロデ大王によって統治されていたが、彼は、親ローマ派としてアントニウスに取り入り、元老院からユダヤ王の地位を与えられた。また、ヘロデは反乱の恐怖から、圧政による統治を行い、ローマの属国の王としては、ローマに媚びる政策を行い、ローマ皇帝のためのに建造物を建設した。その状況にキリスト意識を吹き込み、民の覚醒を行ったのが主イエス・キリストだった。そして最後にお伝えしたいのは、今もキリストは私達と共に歩まれている。