変形共産主義に対備せよ
今から20年近く前、場所は忘れたが全国の教育担当が関東のどこかに(正確な場所は忘れたが)集められ、変形共産主義の勉強会が開催された(正式な会の名称は忘れた)。この会の開催目的は、”神様は国家主権を奪い合う戦いには勝利したが(ソビエト連邦の崩壊)、サタンは屈服していない変形共産主義に対備せよ!!”この様な趣旨のみ言をお父様(文鮮明真の父母様を私は尊敬と愛をこめてそう呼んでいる。以下お父様と略称)が語られところから始まった。
クレイグ・レイノルズCraig Raynoldsが鳥の群れをコンピュターグラフィックスで再現し1987年に発表した。このモデルは「ボイドモデル」と呼ばれ、三つの単純なルールでプログラムされている。
鳥、魚、動物の群れでの行動を研究してみると、支持を出しているリーダーが存在せず、その行動のメカニズムがはっきりわかっていない。しかし、鳥に関してはどうやら周りの6羽位を見ながら群れ行動を形成しているのではといわれていて、ボイドモデルはそれをシュミレーションプログラム化したものだ。
- ボイドの三つのルール
- ①衝突回避(Collision Avoidance)
- 衝突しそうな他の鳥や物体がいたら衝突しないように離れるようにする。
- ②整列(Velocity Matching)
- 近くにいる他の鳥と移動する速さと方向を合わせて動きを同じにする。
- ③接近(Flock Centering)
- 群れからはぐれてしまわないように、鳥が多くいるほうに近づくようにする。
何故この様な話を冒頭取り上げたかというと、最近ネットで冷戦時代を知らない若者達がマルクスの「資本論」やダーウィンの「進化論」を再評価しているYoutube番組をよく見かける。
前述の鳥の群れ行動のように、意識高めの割と筋の通った活舌の良い論者によって展開してる話を自分でキッチリ評価せず、更に似たような論者が周りに複数見かけると、それらに無自覚に釣られ群れてしまうのでは。
余談だが、この様な鳥の群れ行動のフレームワークを、私達人間の単純行動に当てはめた場合の直近のわりとわかりやすい例に見ることができる。それは前回当ブログでも取り上げ、大変傷ましい事故だった梨泰院現象だ。
話を戻すが、かってオルテガは「大衆の反逆」の中で、国民国家成立によって民主主義が勃興し、それによって大衆の政治参加が民主主義を劣化させるとし、貴族(エリート)による政治を理想として説いた。
オルテガは共産主義を徹底して糾弾した人物だが、彼のいう貴族とは、伝統的生活に裏打ちされた保守的知性を身につけ、自分と異なる者と共存しようとする忍耐力や寛容さを持ち、課せられた使命と責任を引き受けその中で能力を発揮することを旨とする高貴さを身につけている自由主義(リベラリズム)人だ。
私が危惧するのは、恐らく現代という一見(本質ではない名目上の世の中の様)すると、あからさまになってゆく嘘と矛盾に満ちた捉えどころがないような、今まで一般的な名目上の世の中は何とか解釈できたが、全くと言っていいほど解釈できなくなってきている完全に壊れている社会の中で、逃げ場の無い自己喪失感を持った人達が、しかし、未だ必死になって現実打破したい欲求、エネルギーを持った人達が、ブレークスルーを求め以下のような結果に導かれるのではといった危惧だ。
- 中世封建社会は、キリスト教を生きながらにして埋葬してしまったのである。
- この墓場の中から、新しい生命を絶叫する宗教改革の狼煙は空高く輝きはじめたのであったが、しかし、その光も激動する暗黒の波を支え切ることはできなかった。
- 初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのである。
- これが即ち共産主義である。
このような世界を終末と呼ばずになんと呼ぶのか言葉が見当たらない。私に今見えている割と身近な日本の現状を文脈化すれば、前述した未だ生へのエネルギーが噴出している若者達は、その解を古典に求め、例えばマルクス的なフレームワークで現実を解釈したときに、まるでそれら古典の解釈者たちが救世主のように、それらによって物事や今起こっている現象がリアルに解けたかのような心地よさに酔いしれている様が一種の表層現象である事を指摘したい。
そこで今回は共産主義の本質は変わらず、深度が深まった共産主義をお父様は変形共産主義と呼び備えよと語られた。このみ言を起源として始まった勉強会で、小山田秀生氏等によってまとめられた案を基に研究したことを、あ~この道はいつか来た道ではないが、思い出しながら備忘録的に書いてみた。
私は昨年、所謂”旧統一教会”家庭連合を、何とお父様ご自身が破壊されたと捉えている。この不条理の意味は神様の復帰摂理歴史の中でも、聖書世界でも深くて大きい。聖書に貫かれている世界は非局所性の世界であり、この認識が無ければ聖書解釈を正確にすることができないと考えている。聖書の世界は、私たちが最も馴染んでいる物理世界での因果律をベースにした認識とは全く違う世界観である。
お父様の蕩減復帰の歴史も含めた世界観(天宙観)は、わりと安直に表現すれば、現在から過去を変え、変わった過去によって翻って瞬時に現実及び未来の変化の原因をつくり、その後物理世界(実態世界)が暫時変化するようなイメージだ。物理世界の時間空間因果律が全く当てはまらない世界観だ。そうなると例えば私たちが知っている歴史も実は名目上の歴史で物理的視点での歴史観では、本質へは到達できないということだ。
資本主義が内的にも外的にも限界を迎えているがエグジット出来る答えは見つかっていない。お金を稼いでも幸せになれていないし、物質では幸せになれない事もなんとなく分かってきた。唯物的価値観では自分は豊かになれないのか、豊かさとは何か、更には世界的な民主主義システムへの懐疑、近代西欧の理性的な哲学思想は人類の成長発達を説いてきたのではないのか。西欧科学的分析手法では、答えが得られない場合は更に末梢に向かう癖がある。これはこれで一定の成果を上げてきたのは間違いないことだが、
しかし、それはあくまでも神様という全体性、絶対性Absoluteness、普遍性を持った超越的存在によって包含されていることを軸に抹消に向かわなければならず、お父様の「縦横」の概念に裏打ちされて無ければ、糸の切れた凧のように全ては風(サタン)によって操られてしまう。
それでは「変形共産主義」の文脈で宗教改革からマルクスまでザックリと哲学思想史をまとめてみると、イギリスにおける産業革命以降資本主義が生まれるが、宗教改革以前の封建性が支配的な身分秩序の社会では、職業には階級がありもっぱら労働は身分の低い層が担っていた。
なので身分の高い聖職者や王侯貴族、領主は労働する必要はなく、庶民が労働をして偉い人を支えていた。労働は、身分の低い奴隷や卑しい者が行うものであり価値はないものであった。
ところが宗教改革以降カルビンらは、どの様な職業であったとしても尊いものであり、神様によって与えられた天職である。職業を全うすることが神のみ意であり、労働には天的価値があるということを説いた。
- マルティン・ルター
- 「神は賽銭を受け取らない。受け取るのはローマ教会の坊主どもだ」
- 「人は寄進ではなく、信仰によって義(正しい)とされる」
- 「聖職者は不要。万人が祭司であり、世俗の職業も神が与えたもの」
- ジャン・カルヴァン
- かくてまた、特殊な慰めというものが生れる、なぜならば、(われわれが自己の天職に従う限りは)余りに卑しく下劣で、到底神の御目の前において真に尊く見え、非常に重要には思われないというような仕事は、どこにもないからである。
更にその後、啓蒙思想によって理性的に、批判的精神をもって教会の権威や封建的な考えや制度を否定。イギリスのジョン・ロックJohn Lockeは、「経済的価値の源泉は、財そのものには無く、それを生み出した労働にあり、生産した富は、労働の産物である」と主張し、労働価値説を主張した。
しかし、宗教改革者カルビンによって説かれたものや、啓蒙思想による主張はキリスト教的価値観、倫理観を土台にしたものであり、主観的なものであったが、マルクスが採用した問題解決は、客体化された資本主義的社会構造が問題であり、社会システムが問題としてこれらを変えるしかない考えに至る。決してキリスト教の伝統を内包し保守した、内的自己を変えることによって自己変革し止揚発展すという(ヘーゲル的な陶冶の概念、或るはキリスト教弁証法的な)ものではない。
マルクスは経済学批判の序言で述べられた唯物論的歴史観の要約でこのように言っている、「人間の意識がその存在を決めるのではなく、人間の社会的存在が意識を決める」と。復帰摂理で何度も耳にするカインとアベルの主客転倒型社会観、歴史観の典型だ。
お父様の偉大性の一つは、悪が悪となったことを明確にしたことだ。特にマルクスは天使長ルーシェルの実体モデルとしては、最適な研究対象である。過去先輩たちも多く研究されて来ていると思うが、
私の理解では、「資本論」でマルクスは価値の二面性と労働の二面性を言っており、労働には具体的有用労働と抽象的人間労働がある。価値は抽象的人間労動によって決定し、抽象的人間労働とは労働量であるといっている。
この抽象的人間労働における労働量を定量化しようという試みだが、算定はかなり困難だ。イエス様もマタイによる福音書20章1~16節の「ぶどう園の労働者」のたとえの教えで指摘しておられるが、人類の殆どがやられてきている「愛の減少感」だ、これに完全に勝利された方はイエス様とお父様だけだ。
私は、マルクスはこれを(愛の減少感)肯定的に歴史法則と社会システムの中へ科学的な手法でねじ込んだ理論が資本論と理解している。以前当ブログの「イデオロギーで人を操るサタン」の中で、そもそも物事を「外形的、形式的、機械的、合理的」に親和性のある数量的な尺度で、「計量的、定量的」なものに置き換え計ってしまうという性質の起源はルーシェル天使長から来ているといことを指摘した。
ルーシェル天使長にとって愛とか情はただの感じ取りにくい煩わしいノイジーなものかもしれない。私は前述したブログの中で、ジョン・メイナード・ケインズJohn Maynard Keynesの「しかし、遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなく思想である」。という言葉を紹介したが、この言葉の前段では、若くして影響を受けた思想は、その後、その人自身の中で支配的になり、既得権益等よりも強い影響力を持つようになるといった趣旨の重要な指摘をしている。
お父様が命名された「変形共産主義」は、二大王様も指摘されているように本質はサタニズムであり、その起源は、ルーシェル天使長との霊的堕落によってルーシェル天使長の霊的、内的性質、要素が入りこんだところから始まり、アダムとの肉的堕落によって物理的(実態的)に結実させてしまったことによって四位基台がサタンを中心につくられてしまったことにある。
この様なルーシェル天使長のイデオロギーの集大成がグローバル金融資本主義による世界支配であり、それを確立させるためのグレートリセット、ニューワールドオーダーということではないだろうか。
以下の画像は昨年11月エジプトで開催されたCOP27に際し行われた、「The Interfaith Center for Sustainable Development」というNGO団体がシナイ山で行った宗教的儀式を報道した画像。古い十戒を地面に叩きつけ壊し、新しい十戒を発表した。彼らが目指すものは科学を中心とした世界統一宗教であり、反キリストであるのは間違いないだろう。
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