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「獣」達の時代とその終焉

キリスト教聖書解釈学では、聖書の解釈は、基本聖書内の記述からするという原則を踏まえて解釈された「獣」は国家を表しており、その解釈の基礎になっているのがダニエル書7章4~7に登場する「獣」である。その上で、『「獣」達の時代』とは、聖書全般に出てくる「獣」という記述が伝える...

宗教と科学の統一

私の中の「絶対仮説」

歴史的最後の勝利者 1988年1月7日韓国ソウル本部教会 ファミリー掲載から一部抜粋

一般の人々の歴史観の上に宗教を背景とした神の摂理観が介在されていなければなりません。

一般の人々も、国々も、主権者も、神の摂理観が分かりません。また宗教圏内にいる人も、神の摂理観をはっきりわからないのです。

なぜならば根本を明かにできないからです。それは人間がなぜ生まれたのかということであり、そしてこのような歴史時代を経ながら、どこへ行くべきなのかということです。

すべての方向設定が一つの原則によって決定されていないので、歴史に従ってゆく人間は決定的目的をもつことができないのです。

歴史的最後の勝利者 1988年1月7日韓国ソウル本部教会 ファミリー掲載から一部抜粋

公式というのは、ある一つのモデルがあって、そのモデルが千万種に適応する時に、それが公式となるのです。

すべての統計的連関的関係によって、今日の現代社会は構成されているのです。ですからこの社会は科学技術の連続なのです。科学技術は必ず公式と発展の上に立っていくのです。そのようにして世界は時々刻々と変わっていくのです。

私たちの日常生活における文明の利器を見ても、時々刻々と変わってゆくのです。毎日そのように変化する社会環境は、宗教的観念で消化することができません。その範囲に収まらずにどんどん飛び出していくので、現在の宗教世界は難関にぶつかっているのです。このように宗教世界も混乱し、外的な科学世界も混乱しています。

では宗教世界と外的科学世界がどのようになればいいのでしょうか。宗教は宗教なりに混乱して、自分勝手に回っているのです。神はこれを許しません。宗教の流れも、この世の流れも必ず一つの回転により、一つの定着基地を設定しない限り、神の理想は実現不可能なのです。

なぜならば、私たち人間は二重構造にできているからです。外的には体があり内的には心があるのです。では「どちらが主体でしょうか?」と尋ねた時、小学生でも、体が主体だという人はいません。「あなたは良心の呵責を受けないのですか?」と問われるばかりです。

それは何のことかというと、良心が主体の立場にあり、良心が正しいということです。その場合それは何を中心としてかといえば、水平的に正しいという概念と、垂直的に正という概念があり、垂直的に正しいというのが主体なのです。

垂直を中心として正しいということは、その垂直線上の九十度の概念を中心としてぴったり合う、中心的、主体的位置、縦的基準によるのです。

この写真は、1927年量子力学に関する第5回ソルベー会議の参加者の集合写真だ。出席者29人のうち17人がノーベル賞受賞者であり、この会議には、この時代の最高の叡智達が集まった。アルベルト=アインシュタイン、エルヴィン=シュレディンガー、ポール=ディラック、ニールス=ボーア、ウェルナー=ハイゼンベルク等、現代量子論の基礎を築いた人たちだ。恐らくお父様はまだ7歳くらいの頃ではないだろうか

お父様は宗教と科学の統一を生涯テーマとして掲げられた。しかし、現代において科学的なるものは、反証可能性の有無で科学か非科学もしくは疑似科学かを判断される。この条件を満たしていなければ科学から排除される。

それでは反証可能性とは何か、一般的には実験や経験から導き出されたものによって批判したり議論出来るかどうかということであり、主張しようとするものに、そのような期会や場を提供できているかということ。

私達神様を信じる者が神様の存在を科学的に議論しようとすれば、神様がいないという説を議論しながら一つ一つ潰してゆくことを通して神様の存在証明しなければならない。

例えば「神」の存在証明をしようとすれば、神が存在するという仮説を立て、神は存在しないという主張を理論や、理論を土台に実証されたエビデンスで、一つ一つ反論を潰してゆかなければならない。また「罪」や「蕩減」の存在を主張する場合にも、その根拠を示し実証的に証明しなければならない。

宗教的なテーマを掲げたり、直観的な物言いでいわゆる科学の範疇に入ろうとすれば、このようなめんどくさいプロセスを経なければ、うわべ上極端に脳化された世界に向けて何か発信した場合ほぼ認めてもらえない。特にメシアを基点として見た場合、人類が払ってきたこのコストは計り知れない。愚かな堕落世界全体が支払わなければならない膨大な祭物である

このような惨憺たる人類のさまを良くご存じだったお父様は、私達人類に「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」を下賜された

私の中ではで科学的なものと折り合いをつけてゆくうえで、方便的に使っているのが「絶対仮説」だ。これは、「絶対」と「仮説」が合わさった矛盾した変な概念だ。科学的に証明できていないので今の段階では仮説ではあったとしても、何故かわからないが私の中では絶対的なものとして支配的に存在しているものが必ずある、これをそのように呼んで使っている。

それではお父様は、ご自身を縛るような困難なテーマに何故チャレンジされたのだろうか?私は、無形世界が有形化される過程で、概念化されたものが脳によって認識あるいは定義付けされるという創造原理的プロセスを瞬時に経るようになっているので、元々は宗教と科学は一つなものだ。お父様は分離した宗教と科学を違和感なく縦横の概念どうり元に戻すためにただされたのだろう、当たり前のように。

また別な視点で見れば、悪魔サタンは復帰摂理において心の役割、機能を担っている宗教者を支配しようとし、宗教の曖昧な部分(例えば韓鶴子氏が独生女を乗っ取ったように)に侵入し、恣意的に概念をつくり、定義を変え解釈を変えてきた。しかし、科学的な手法は曖昧を許さない。

神様と原理と宇宙には1ミリも曖昧なものは無い、もしあれば宇宙は当の昔に破壊しているだろう。

アインシュタインは物質とエネルギーが等価であることを発見し数式で表した。お父様は心と体は本質では同じであり、同じ原理で説明できることを我々に下賜された。そのすべての根本は神様にあり神様から全ての事柄が始まったのだと教えてくださったのだ。


下賜された「原理原本」

先月2023年2月19日「文享進二代王様日本信徒招請天運相続特別礼拝」で、「原理原本」を手にすることができた。

私はお父様が下賜して下さったと確信している。それはお父様の全てを取り戻された二代王様のもとでしか出来なかったことであり、この尊い仕事のために集められた方々、中村仁史氏をはじめとして翻訳から上梓するまで携わった兄弟姉妹に先ず感謝を送りたい。

私にとって「原理原本」は宝の山であり、ここからいったい何が出てくるか楽しみにしている。その上で主張したいことは、「原理原本」の出現でより鮮明になったお父様のみ言と最先端科学との一致である。



文鮮明 原理原本 第一巻 序章「一」から全存在へ16p第三段落

実体世界(有形世界)は人間と万物の展開を意味する。この有形世界は、無形世界を表示する影体(自らが反射した実体)として発展させようとするものであり、それがすなわち創造の意義である。

これを簡単に表示すれば、「神=人間+万物」ということになる。神自体は「一」だが、性としては両性であり、この「一」それ自体である自我(神)を複数体系として展開したということが創造の根本意義なのである。
海外でも活躍され、現在最先端の場の量子論や超弦理論の研究をされておられる大栗 博司先生の仮説よれば、2次元地平面に宇宙に関するすべての情報の記録が書き込まれている極⦅下線部分の表現は、私が独自に聖書的に表現したものであり、決して大栗 博司先生が使われている言葉ではなく、科学的な表現でもありません。また、「極」とは宇宙膨張の観測できる部分と、更にその先の光速より速い観測不可能な部分との境のこととして使っております。⦆が存在し、宇宙に存在するすべての物は、それら情報の3次元立体像、すなわちホログラフィーにすぎないという説



2022年ノーベル物理学賞を受賞されたフランスのパリ・サクレー大学のアラン・アスペ教授、アメリカのクラウザー研究所のジョン・クラウザー博士、そしてオーストリアのウィーン大学のアントン・ツァイリンガー教授の3人は、量子力学の分野で貢献された方々だ。

クラウザー博士とアスペ教授は「量子もつれquantum entanglement」と呼ばれる量子力学を象徴する現象が理論だけでなく、実際に存在しうることを実験をとおして証明された。

以前も当ブログでも取り上げたが、「量子もつれquantum entanglement」とは、2つの光の粒などの量子がお互いにどんなに遠く離れていても片方の量子の状態が変わると、もう片方の状態も瞬時に変化するという、「量子もつれquantum entanglement」の現象が実際に起きることを受賞された博士らは実験を通して示した。

「量子もつれquantum entanglement」という量子の不思議な挙動を使った「量子暗号システム」は、実際銀行などのセキュリティ等でも既に運用されている。先日破綻したクレディ・スイス銀行も、最先端の量子暗号技術を使ったセキュリティで、外部からの不正なアクセスを監視していたようだが、皮肉なことにこの銀行の敵は外からの侵入者ではなく、中の経営の問題が最大の敵だった。

私の聖書観は、聖書の世界は非局所性の世界であり、恐れず俗的に言えば、名目上の過去、現在、未来がエンタングルメントentanglementしていて、名目上の過去を変えることを通して、現在と未来が変化してゆくようなイメージだ

そして私のメシア観は、この「変える」権能をもった方がメシアであり、唯一イエスキリストとお父様だけである。大栗先生の説に乗って表現すれば、人類始祖が堕落し書き換えられた宇宙の「極」の二次元情報を、本然の状態へ書き換える権能を持った方は唯一メシアである

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