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人間は如何にして罪を自覚したのだろうか

文鮮明総裁 講演文「宇宙の根本を探して」 1996年8月1日世界平和家庭連合創設会議 閉会晩餐会 ワシントン・シェラトンホテル  格式あるこの壇上から、このような話をすれば失礼だと思われるかもしれませんが、実感のわく話なので、一つの例を挙げてみましょ...

真正キリスト教が何故日本に必要なのか

「地の塩たれ、世の光たれ」を旨とする生き様

へブル人への手紙4章12節~13節

12、神の言は生きていて、力があり、もろ刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。

13、そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
王様が世界会長時代に正確な言葉ではないと思うが、確か以下のような意味合いの言葉を語られたと記憶している。

  • 家庭連合の問題は2つあり、一つは聖書を読まない事(或いは聖書を理解していない事)と、二つ目は食口どうし仲が悪い事。(ここに記したものは正確性を欠くため参考程度としてとらえてほしい)
このような趣旨の言葉は実に言い得て妙である。当然当時王様が語られた言葉の意味にはもっと深いものがあると思うが、世界で唯一生けるキリストを抱いているメシアの基台の中核的存在の致命的な深刻な問題点を、捨象した文脈で的確に表現されている

私がいう真正キリスト教とは何か、クリスチャンは折に触れキリスト教は宗教ではないとし、生けるイエス・キリストとのリレーションシップであることを良く強調される。

その言葉から伝わってくるのは、日々少しでも生けるイエス・キリストに近づき、イエス・キリストの息づかいを感じ、イエス・キリストとの思いや思考、一挙手一投足立ち振る舞いまでもの一致を自らに課し、自らの中に相容れないものがあればそれを修正し、神様に喜びと感謝をお返しすることを旨とすること

私は二代王様を近くでもなく、決してすべではないが見てきて感じ思うのは、お父様の真正後継者というだけではなく、彼こそ真正キリスト者であるということ

マタイの福音書5章13~16節 

13、あなたがは地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってよってその味が取りもどされようか。もはや、何の役にもたたず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。

14、あながたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。

15、また、あかりをつけて、家の中のすべてのものを照らさせるのである。

16、そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようになるようにしなさい。

2月初め、ある家庭連合所属の食口と自宅で会食した時、韓鶴子氏がメシアであることを確信に満ちた顔で話すのを聞いて驚いた。

「罪過」のギリシャ語「パラプトーマ」παράπτωμαは、「真理から外れて脱線すること」とか、「道を踏み外すこと」という意味。又「罪」はハマルティアἁμαρτίαで「的を外れ」という意味だ。

キリスト教には基本、人は罪を犯して罪人となるのではなく、人は罪人、罪を持っている故に罪を犯すのだという教えがある。そしてその罪とは真理から外れた存在、的を外れてしまう人の根っこにある罪ということを教えてくれる。

イエス・キリストとお父様から下賜された神様のみ言、即ち真理は、適格に的の中心を示し、その的を射貫く強い力を私達に与えてくれて、更に私達に強い信仰の力を与えてくれた。

口にこそ出さなかったが、韓鶴子氏のどこにメシアとしての存在性を感じているのだろうかという疑問がわいてきた

家庭連合時代解決できなかった、一階二階問題

戦前戦中にかけて東北帝国大学で教鞭をとっていたこともある、カール・レーヴィットKarl Löwithという哲学者がいた。彼はハイデッガーの弟子で、第二次世界大戦中ユダヤ系であった彼は大学を追われ、一時日本に亡命していた。日本の知識人を痛烈に批判したことでも知られていて研究もされている。

彼の哲学はさて置き、彼が言い放った日本知性人批判は有名だ。いわゆる「一階二階問題」と呼ばれているものだ。今回はカール・レーヴィットが感じ表現した文脈を使って、「真正キリスト教が何故日本に必要なのか」を備忘録として書いた。

例えば彼が指摘したこの批判はこのようなくだり、「日本の哲学者は奇妙で、一階に住んで人々と同じふるまいをしているのに、哲学するときだけ二階に上がってくる」で始まる。

補足すると、彼がいう一階とは日本に古くからある伝統やたたずまい、あるいは、家族の在り様だったりとか、そして二階とは、プラトンからハイデガーまでの古代ギリシャ哲学から西洋近代知性に至るまでの知識が本棚にピシッと整然と綺麗に並べられているが、何と驚いたことに一階と二階には梯子がかけられていなかったという比喩を用いた痛烈な批判である

更にカール・レーヴィットが指摘した批判にも通じる内容を深い洞察で、明治から今に至るまで日本の状況を、近代日本精神史を通して文芸批評家浜崎洋介氏が、「ぼんやりとした不安の近代日本ー大東亜戦争の本当の理由ー」(ビジネス社)の中で各時代を解釈し批評している。

特に大変参考になったのが、日本を代表する小説家であり知性人でもある芥川龍之介が自死する前に残した、「ぼんやりとした不安」という言葉をタイトルに付けた意味に込められた、今の日本人に対するメッセージだ。

明治以降近代日本が取り入れてきた西欧知性主義を「和魂洋才」という方便を使って進めてきた近代化であったが、結果空っぽで薄っぺらな自己喪失した日本がつくられてきた背景に、いったい何があったのか。真正キリスト者への覚醒を自覚するならば、何をなせて、何をなせなかったのかを深く考えるうえで、改めて大変参考になった一冊であり、この場を借りて浜崎洋介氏に感謝を一言申し上げたい。

  •  明治の「文明開化」を成し遂げた、日清日露の勝利によって「富国強兵」を達成し、大正の「教養主義」と「デモクラシー」によって、自らの近代性を洗練してきたはずの日本人は、しかし、これまでも述べてきたように、次第に自らの足元にある「故郷」を見失っていくことになります。

  •  「和魂」を守るために用いられた「洋才」によって「近代化」に成功した日本は、しかし、まさにその成功のなかで、次第に自分自身の「和魂」のあり方(自分自身の自然な呼吸感)を見失っていってしまうのです。そして、そんな「自己喪失」の不安に人々が苛まされはじめたちょうどその頃、まさに近代的教養で身を固め、近代日本の知性を代表していた芥川龍之介が、「ぼんやりとした不安」という一言を残して自殺してしまうのでした。
  •  人生は二十九歳の彼にはもう少しもあかるくはなかった。が、ヴォルテエルはこう云う彼に人口の翼を供給した」。彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞い上がった。

  •  彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞い上がった。同時にまた理智の光を浴びた人生の喜びや悲しみは彼の目の下沈んで行った。彼はみすぼらしい町々の上へ反語や微笑を落としながら、遮るものない空中をまっ直ぐに太陽へ登って行った。ちょうどこうこう云う人口の翼を太陽の光にやかれたため海へ落ちて死んだ昔の昔の希臘ギリシヤ人も忘れたやうに。……

  • 「或阿呆の一生」昭和二年六月……遺稿
上述した芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」の一節を以下のように読み解いている。
  •  こでヴォルテエルから与えられた「人口の翼」とは、近代文学を含めた西洋的な教養、つまり、対象を客観的に描写し、それによって自分を取り囲む前近代的な世界(迷信)から自由になっていく道具としての「理智」です。それによって、みすぼらしい日本の町々に反語と微笑を送りながら、西洋という太陽へと登ていった近代日本人=芥川は、しかし、やがて気づくことになります。キリスト教という信仰の支えがない限り、太陽(西欧)に近づけば近づくほどに、ついに「人口の翼」は、その光によって焼かれーつまり、「個人主義」の孤独と空虚に耐え切れななくなってーその「理智」は海へと落ちていってしまうのだということを。

キリスト教に支えられた「理智」を、近代日本は知性人を中心にキリスト教は拒み、キリスト教信仰の下支えの無い「理智」のみに憧れ取り入れていった


  •  それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……

  •  そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

  •  彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。 「人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない。」

  •  彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

  • 「或阿呆の一生」昭和二年六月……遺稿
浜崎洋介氏は、芥川の自死を上述した遺稿の一節からこうも解説している。

  •  「或阿呆の一生」の「人生は一行のボオドレエルにも若かない」といった自嘲気味な台詞、……いずれにしろ、芥川の死は、明治から大正をひっぱってきた近代の個人主義が、今やその輝きを失いつつあるのではないかという「ぼんやりとした不安」を、近代日本人に印象付けることになったのです。
上述の遺稿から読み取れるのは、彼がまさに世の光に見え求めてきたものが西洋の知性であり、それを身に纏う(まとう)ことこそが理想であるとして生きてきた。それが或本屋の二階の風景として表現されている。

しかし、一階には店員や訪れている客の姿があり、それを見下す彼には、「彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた」にうつり、この一階の風景こそが、大正の華やかに見えた西欧教養主義から昭和の大衆社会に入ってこうとする入り口にうつった、日本人の普通の風景であるが、しかし、それは彼が愛した西欧の知性をまとった姿ではなかった。

彼にはその風景が、「一行のボオドレエルにも若(し)かない」ものでしかなかった。かれは理想と現実に梯子を掛けられない空虚さの中で「ぼんやりとした不安」を抱えるしかなかった。

この一階二階問題の枠組みで見るならば、私はかって家庭連合所属時代、婦人部長制度を痛烈に批判していた。平信徒でいたころ平凡で非弱く見えた普通の主婦が、婦人部長の位置に就いたとたん何故か分からないが西太后さながらの権力者に豹変してゆき、得体のしれない魑魅魍魎な存在に成り下がる人たちを多数見かけた。

その存在の奇妙さは、お父様に涙していたと思ったら、涙も乾かぬ間に冷血な権力者に変わってゆく姿であり、そのような場面に何度も出会ってきた。私はこのような人たちを見て心に浮かぶ疑問があった、「この人たちは自分の姿と、お父様のみ言との間での正邪の整合性を一体どのようにとっているのだろうか」である

まさに一階にある冷血な権力者の姿と、二階にあるイエスキリストとお父様の愛のみ言との間にあるべく梯子が全くかかっていない人達が決して少なくは無かった気がする。

しかし、本来この梯子をかける役割は、牧会者と呼ばれる人達の使命であり、天と地を仲保する役割が彼らにはあったはずだ。私が見てきた限りではあるが、その使命に向かおうとしていた人は皆無で、実績欲しさに皆婦人部長に飲み込まれ、取り込まれていった。そして、結果としてただお金を生み出すことだけに奔放する低レベルな組織に成り下がってしまった

世界は良きにつけ悪しきにつけ理念で動いている

日本の保守の中には、世界は経済合理性や地政学的運動法則(マルクスの資本主義における運動法則的な、何だかわからないが、心も体も一定方向に動いてしまうような)で動いているという認識をされている方が決して少なくない。が、しかし、私はこれだけでは無いと考えている。

以下の図は、イギリスの国際政治学者でもあり地政学者コリン・グレイColin S. Grayの戦略の階層を、彼の著書の翻訳なども多数されておられる奥山真司氏の「戦略の階層3.0」を掲載したものだ。

世界のシンクタンクや戦略家は、少なくともこの様なツールを使って戦略を立てているが、日本の戦略の議論には、民間企業、メディアも含めてせいぜい下の二つ、7番目の技術と6番目の戦術の議論が多く散見される

このことに関しての問題意識は、「戦略の階層3.0」の提唱者奥山氏自身にも、様々な期会で発言されている内容を聞けば感じられる。また違った視点と表現ではあるが、以前「ひよわな花・日本―分析と警告」の著者ブレジンスキー氏は日本のことを、「政治的な砂上の国家に築かれた経済大国」と説き、日本の未来に警鐘を鳴らしていた

長々と書いているので詳細は省くが、下の図で最上位の階層は世界観だ。それではこの世界観(価値観、歴史観、人間観等を含む)を生み出すものは本来神様やイエス・キリストとの心からの深い交わりから染み出てくるもの。当然現実世界は堕落世界なので、サタン的悪魔の理念を中心に善悪が混在しあっている

2023年3月30日米ニューヨーク州のマンハッタン地区検察官が招集した大陪審は、トランプ前米大統領を起訴した。彼を訴追したのはアルヴィン・ブラッグAlvIn bragg氏で、ジョージ・ソロス氏自身メディアでは否定しているが【【ソロス氏はトランプ氏の起訴が決定した30日、ニュースサイト「Semafor」の編集長に宛てたメッセージで、「アルビン・ブラッグに関しては、私は彼の選挙運動に寄付していないし、彼のことも知らない」と直接的な関係を否定している】】、一説によるとアルヴィン・ブラッグはソロス氏が育てた検察官で、彼(アルヴィン・ブラッグ氏)以外にも彼(ジョージ・ソロス氏)が育てた検察官は多数存在していると言われている。

それでは彼(ジョージ・ソロス氏)は政治的な分野に、戦略の階層図でいえば上位階層までも含めて、何故一介の投資家がそこまで介入するのだろうか。また彼の言動からは決して政治的野心ではないように見える。

殆どの方が表面的に見ているジョージ・ソロス氏は、一見すると偉大な投資家で大金持ちというイメージだが、彼は大学で哲学を学び、哲学者になりたかったと折に触れ発言をしている。私の認識では彼は行動する哲人である。因みに彼はザメンホフが提唱した世界共通語エスペラント語の達人者でもあるが、これも気になるところだ

注目したいのは彼の投資理論「再帰性理論」だ。これを見れば彼の理念と行動が良く分かる。この投資理論の本質は、彼の哲学に拠るところが大きい気がする。この理論の重要なキーワードは「市場は常に間違う」だ。彼には人間の「可謬性」に由来した世界認識があり、反対に自然界は「無謬性」の存在として認識している。この認識が彼の理念の土台でありそこから彼の世界観が生み出されている。この理念を投資理論に応用したのが無敵の理論と呼ばれる「再帰性理論」だ。

ザックリと要約すれば、人間はコントロール可能で、自然界はコントロール不可能という理念を土台として、市場(人間の持つ可謬性によってつくりだされた)は本当の現実と乖離した名目上の現実とによってバブルが生み出される。その理由は、人間はいつも全体を見ることができずに、一部分のそれも誤った認識(認知機能)から、またそれを改善しようとする操作機能とが交互に作用しループするという再帰性が常にあるというものである。

魔魂聖才と岸田のしゃもじ

日本の政治は伝統的に御用聞き政治であり、お父様も日本を芸者のような国と称されたことを覚えている。誤解を恐れず結論を言えば、日本にはキリストを根とするサタンと戦う宗教理念がない。

前述の、「和魂洋才」という心と体が分裂した状態を良しとし、曖昧にしてきた日本に蔓延する「空気」が日本を「自己喪失」させて来た。

以前お父様が日本の幹部達を呼んだ時、ある幹部を立たせてこう質問したという。「小山田と古田は一体化していたと思うか」と。問われた責任者はこう答えたという「私は地方(彼は東北のブロック長をしていたそうだ)にいたので良く分からないです」と。その時お父様は凄く怒られたそうだ。

この状況をどう解釈したらよいのだろうか?私の推論は、彼はその場にいた小山田、古田両氏に忖度し、その場の「空気」を読んだに違いないと、結果、お父様よりも小山田、古田両氏を中心にしてしまい、お父様の位置を相対的に下げてしまったのだろうと

恐らくお父様は小山田、古田両氏が一体化していなかったことを良くご存じで、その責任者はお父様はそのことをご存じないと勝手に瞬間判断し、人間的な保身もあり上述の発言になってしまったのだろうと。そして、お父様から指名された責任者自身も小山田、古田両氏が一体化していなかったことを重々知っていたのかもしれない

岸田首相がゼレンスキー大統領と会い”必勝”と書かれたしゃもじを渡したそうだ。バイデン政権のパペットに成り下がった岸田政権は、恐らくウクライナ戦争後の復興支援をやらされるだろう。戦後復興支援という名のもとに、莫大な資金がウクライナのネオナチ政権と、腐敗したアメリカ政治家へキックバックして流れてゆくだろう。

岸田首相は、①アメリカ②中国③財務省の僕、一体この道化師のような薄っぺらな僕政治家を操作しているのは誰なのか?


家庭連合最高意思決定にいる方々が、悪魔に従属させるための方便として使っている「魔魂聖才」を見抜くためには、真正キリスト者にならなければならい

家庭連合一般信徒諸君、「魔魂聖才」を見抜くためには、真のお父様の真正後継者であり、真正キリスト者である二代王に侍り、「神の言は生きていて、力があり、もろ刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる」ように、真理と鉄の杖で武装し、間断なく自らの心と体を鍛錬することを怠ることない生き様こそが、神様が真正キリスト者を目指す我々に課したことだ。

それができてはじめて国家が目覚めることができることをお伝えする

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