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「獣」達の時代とその終焉

キリスト教聖書解釈学では、聖書の解釈は、基本聖書内の記述からするという原則を踏まえて解釈された「獣」は国家を表しており、その解釈の基礎になっているのがダニエル書7章4~7に登場する「獣」である。その上で、『「獣」達の時代』とは、聖書全般に出てくる「獣」という記述が伝える...

peace-tomy4509は食いつきの良い雑魚

深い祈りと瞑想をお勧めする

ヨハネによる福音書9章39節~41節

39、そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
40、そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
41、イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
聖書はメタファーmetaphor⦅隠喩(いんゆ)⦆を使って表現されている所が多くあり、それ故独特な世界観をかもし出している。今も世界中で聖書研究がなされており、人類はこれまでこの作業を絶やしたことが無い。

ある特定のアカウントが、やたらとサンクチュアリブログに嚙みついてきて、個人攻撃を仕掛けている。表向きは「peace」とあるが大変好戦的だ。平和をうたいながら見解の違う相手には、議論にもならないような難癖をつけ攻撃をしかけてくる。一人「偽旗作戦」のつもりなのか?被害妄想なのか?いずれにしても何か目に見えない存在と戦っているようだ。病んでいるようにも見え、ひょっとしたら霊的に追い詰められていて危険な状態なのかもしれない。

冒頭一言申し上げたいが、議論の目的は「合意の形成」であり、それが民主主義の基本だ。私のブログ村でのポリシーは「合意形成できない相手とは議論しない」だ。特に天の父母聖会に於いてはオープンではない部分があまりにも多く存在し、更には以前「韓鶴子パラドックス」前編、後編でも申し上げた通り、韓鶴子氏の主張と中間的な取り巻きの主張が分裂していて(韓鶴子氏自身も分裂している)、例えば韓鶴子氏は、お父様を否定しながら、お父様のみ言を使って自らの正統性を話す等意味不明だ。なので議論は出来ないと判断している。

先ず何が貴方の癇に障れたのか分からないが、そもそも私は貴方をターゲットにしていない。貴方は戦う相手を間違えているのでは?誤解してほしくないのは、私は天の父母聖会を潰そうとしているわけではない、潰れる天の父母聖会から善良な食口を救いたいだけだ。あなた方を潰そうとする勢力は他にいて、今彼らは世界的な混乱を引き起こしている。

貴方がもしその相手が分からないというのであれば教えてあげよう。貴方も断食を少々しすぎたのかもしれないが、もしまだ巨悪と闘う気力と体力があるなら頑張ってほしい!!ファイト!!

それから、読んで頂けたのならわかるはずだと思うが、「バカの壁」は私にもあるという立場で書いたもので、貴方から見て理解が足りなく見えたのかもしれないが、決して知ったかぶりで書いたものではない。貴方にはそんなものは無く、「私には見えている」かもしれないが、「バカの壁」はあなたに対して言った言葉ではないので気にしないでほしい。

もし、「バカの壁」という言葉で心が乱れているというなら、深く呼吸を整え、信仰者らしく静かなところでお祈りや瞑想などしみてはどうだろうか?

「旧約時代から神様が受け取られる燔祭は、「雄」であり、「男」であり、最も尊いものである」とは

結論から申し上げれば「燔祭」は二代王様ではない。彼はお父様の正統相続者であり代身者である。地に於いては私達の祭司長でもあるのでむしろ「燔祭」を司る方だ。これはある人物に届けたい私の「メッセージ」を込めた文章であり、メタファーである。

「ささげもの」全般【①全焼のいけにえ(燔祭)②穀物のささげもの(素祭)③和解のいけにえ(酬恩祭)④罪のためのいけにえ(罪祭)⑤罪過のいけにえ(愆祭)】に関して、神様が直接最も時間をかけて書かれているのがレビ記だ。このことは「ささげもの」に関するイロハのイだ

その上でお話しするが、「いけにえのなかのいけにえ」と言われるのが、「全焼のいけにえ」だ。旧約聖書には280回出てくる。いけにえとして捧げられる動物は「若い雄牛」「雄の子羊」「雄やぎ」「鳥」条件は「反芻する生き物」と「ひづめが分かれているもの」で、奉献者がいけにえの頭に手を置き祭壇の前で屠る方法を神様が直接定められている。

いけにえの中で最も高価なものが「若い雄牛」であり、何故「雄」なのかと言えば、いけににえは人間自身の象徴であり、「男」は家族全体の代表という意味があるからだ。「全焼のいけにえ」の霊的な意味は「献身」と「服従」で、いけにえを捧げることを通して聖別され、神様の聖さにつながることができる。なので大変厳格で厳しく容赦がない。アロンの二人の息子は神様の命令に従わず火で焼かれている【レビ記10章1節~2節】。

この理解が前提にあって初めて「原理講論」の聖書解釈が実にユニークであるかが理解できる。「原理講論」は原理を通して聖書の再解釈をしている。そこで貴方は「原理講論」の以下の部分を引用し、私の書いた【深刻な「バカの壁」症候群】の末文「旧約時代から神様が受け取られる燔祭は、「雄」であり、「男」であり、最も尊いものである」を揶揄されておられるが全く意味不明だ。

前述したように「ささげもの」の諸規定(神様の聖別)と祭司職の諸規定(祭司と一般人では贖いの方法が違う)はレビ記に書かれている。供え物は基本「雄」【「和解のいけにえ」は、牛の場合に限り「雄」「雌」も捧げられる】、しかし、先ほども申し上げたが「いけにえのなかのいけにえ」と言われる「全焼のいけにえ」は必ず「雄」であり、神様が定めたものだ。

ところが貴方が引用した「原理講論」の以下の箇所は、「いけにえ」の規定ではなく、キリストとの関連でアブラハムの象徴献祭(原理講論からの引用)の解釈を通して、再臨摂理の時代的背景を説明をしているのであって、この引用を何故用いたのか理解できない。貴方は自分が一体何を言っているのかわかっているのだろうか?批判にもなっていない。

まさに「観察の理論依存」で、貴方のように原理的な背景を説明せず、形式的な言葉尻だけの、雰囲気だけの、韓鶴子氏「独生女」の合理性にのみ引き付けての主張するならば、何もわからない一般の方々は、下手すると貴方のブログを読み、貴方自身がLGBTQ+【全ての人達(男も女も)が妻の立場女性の立場(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)になる】推進と勘違いされかねない。貴方と天の父母聖会の関係は良く分からないが、「天の父母聖会はLGBTQ+推進」と誤解を受けかねないのでは?

原理講論(第17版改訂)321P~

 次に、雌牛は完成を象徴するものである。士師記十四章18節を見れば、サムソンがなぞの問題ををだしたとき、ペリシテ人たちは、サムソンの妻をさそってサムソンをだまさせ、その内容を探り出すことによって、その問題を解いたことがあるが、そのとき、サムソンは、「私の若い雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかった」と言った。このように、サムソンは、妻を雌牛に比喩したのである。イエスは、全人類の新郎として来られたので、彼が再臨なさるまでの信徒達は、来られる新郎の前に新婦とならなければならない。しかし、新婦なる信徒達が再臨される新郎イエスと小羊の宴を終えたのちには、新婦ではなく妻となり、夫であるイエスと共に、天国生活をするようになるのである。それ故に、イエス再臨以後の完成成約時代は、妻の時代、即ち、雌牛の時代であることを知らなければならない。
聖書全般に渡って貫かれている思想は、「イエス様は死ぬためにこられた」である。この聖書解釈の中核にあるイエス様の降臨目的を、再臨の主であるお父様は「原理講論」後編を土台に、イエス様の降臨の目的をみ言を通して語ってこられた。

上述した「原理講論」後編を引用されるには、当然貴方は「救援摂理」「復帰摂理」「再創造摂理」の違いを理解しておられると思うが、何故「女性時代」なのか摂理的背景を説明してほしい。

「原理講論も「女性時代」の到来を予見していた!!」というならば説明してほしい。この説明は「原理講論」には出ていないので。

最後に、これ以上天の父母聖会は韓鶴子氏の「妄想」「妄言」を繁殖させ、キリストの権威とみ言を愚弄するな!!


上記に対してこの人は以前このように語っておあれる。確認はしていないが、この方が韓鶴子氏由来の「独生女」の原理的背景をつくったと聞いている。知っている方がおられたら教えてほしい。



私はキリストを愚弄する言葉は許さない。

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