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「獣」達の時代とその終焉

キリスト教聖書解釈学では、聖書の解釈は、基本聖書内の記述からするという原則を踏まえて解釈された「獣」は国家を表しており、その解釈の基礎になっているのがダニエル書7章4~7に登場する「獣」である。その上で、『「獣」達の時代』とは、聖書全般に出てくる「獣」という記述が伝える...

お釈迦様の教え

相対基準と引き寄せの法則

  •  お釈迦様が、多くの人達に尊敬されている姿を見て、「どうしてあんな男が皆から尊敬を集めるのか、忌々しい」と、妬みと嫉妬を露わにし、ひがんでいる男がいた。
  •  そこでこの男は、いつもお釈迦様が散歩をされるコースを調べ、多くの者が集まっている路傍で悪口をお釈迦様に一方的に浴びせ
  •  悪口を言われたお釈迦様が、多くの聴衆の前で、きっと醜(みにくい)い醜態(しゅうたい)をさらすだろうと計画し待ち伏せして、お釈迦様にこう言い放った。
  • 男:「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。いまいましい」
  •  
  •  お釈迦様は、不思議と男の言い放った言葉を、ただ静かにお聞きになっていた。
  • 弟子:「あんなひどいことを言わせていいのですか?」とお釈迦様に尋ねた。
  •  しかし、お釈迦様は男が言い放った言葉に、一言も言い返すことなく黙って悪態を聞いていた。
  •  やがて男はお釈迦様の悪口を散々言い放って疲れ果てたのか、或るは、悪態に対して一言も返してこない事にむなしさを感じたのか、その場にへたり込んでしまった。
  •  その様子を見てお釈迦様は、男に尋ねた。
  • お釈迦様:「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が贈り物を受け取らなかった時、その贈り物は一体誰のもだろうか?」と尋ねた。
  •  すると男はお釈迦様に対してこう答えた。
  • 男:「そりゃあ、言うまでもない。相手が受け取らなかったんだから、当然、贈り物を持って行った者のものだろう、分かり切ったことを聞くな」と当然だと言わんばかりに強く答えた。
  •  その答えを聞いてお釈迦様は静かにこうお答えになった。
  • お釈迦様:「その通りだ、今、私はあなたが言った言葉を一言も受け取らなかった。なので、あなたが言った言葉はすべてあなたが受け取ることになるんだよ。」

前述の話は大変有名なお釈迦様の教えである。文鮮明真のご父母様は復帰のご路程においてサタンを自然屈服させ、神様の解放と人類の救いを成されてきた。お釈迦様は仏教の開祖として知らない人はいない。それに対してお父様は、神様がユダヤ、キリスト教をお導きになり、約束された救いを成就するために来られた再臨のメシアである。キリスト教と仏教は、一見すると違う教えのように見えるが、本質に於いて共通部分が多くあると私は考えている。

この場面で恐らくお釈迦様は、直観的に悪態に対して悪態で返せば、相手を主体の位置に立たせてしまい、飲み込まれてしまい相手に福を掠め取られるという原理を良くご存じだったと、私はこのお話を聞くたびに感じさせられる。

更にこのお話の重要な点は、もし悪に対して悪で返していたとするならば、相手の男だけではなく、お釈迦様自身も共に救われなくなるという事を示唆していることである。

いずれにしても、とっさにこのような言動ができるお釈迦様の深くて広い慈悲の心を改めて感じさせられるお話だ。

また、このお話を創造原理を通して理屈っぽく説明すれば、全ての存在は主体と対象との授受作用によって創造される。この時主体が対象に能動的に働きかけて相対基準【共通の基準すなわち共通要素または共通目的を中心として結ばれた相対関係 を意味する。(統一思想原相論)】を造成する事で授受作用が展開する【原理講論(第17版改訂)前編第一章第二節(二)p50】。

お釈迦様は男が放った悪態に、相対基準を結ばず悪男と関係性を霊的にも実体的にも結ぶことは無かった。結果的に存在自体(お釈迦様が悪男の策謀に乗り聴衆の中で醜態をさらす状態)が造られることは無かった

もう一方、引き寄せの法則は、19世紀後半アメリカで始まったニューソート運動(New Thought Movement)の潮流を汲む一つの信念と言われているが、所謂「スピリチュアル」界隈では、多くの方々に支持されており、この契機となったのが何と言っても2006年ロンダ・バーンの自己啓発書「ザ・シークレットThe Secret」ではないだろうか。

映画「The Secret」を当時私も斜め読みならぬ斜め見(所々を飛ばして見る)した程度だが、内容はインタビュー形式でつくられており、インタビュアーが、モチベーター、自己啓発リーダーを中心に、更には他分野の風水、心理学、形而上学、神学、哲学、金融、量子物理学、医学の専門家等にインタビューし答えるというものであったが、印象としては全体的に観念的で完結しておらず、出てくる言葉の概念もはっきりしていない。

ただ、私がこのようなものに触れる場合は、原理とお父様のみ言の枠組みで観察するよう心掛けている。その上で引き寄せの法則というものを考えてみると、自分なりのざっくりとした引き寄せの法則の端的な解説になるが、人生は【人間自体と、人間を取り巻く世界(環境)も含めて根本はある種のエネルギー体であるというのが前提】、全ての存在は心が反映されたものという捉え方をしている。

例えば、人生何かうまくゆかないことがあれば、それはあなたのがそのような人生を望んだからだ。或るいわ、そのような人生をあなた自身のがつくりだしてしまっているからだ、即ちその状態や状況を、あなた自身が引き寄せているからだと捉える。

上述の「心」の定義は、かなり観念的で論者によって定義と使用している言葉に違があり、一意的に引き寄せの法則論者が使っている「心」「魂」「意識」とはこういうものだと原理的に説明することは、私自身まだできていない。

神、悪魔等の超越的な存在の関与が人生に大きな影響を与えることの説明であったり、蕩減(「原理講論」からの引用)によって引き起こされる現象の説明等は(歴史が繰り返されているような現象、歴史があたかも進化、発展しているように見える現象)、引き寄せの法則だけでは難しい。

引き寄せの法則論者で実践者でもある奥平亜美衣さんは、ご著書で「自我(肉体、思考、感情)」「高我(魂、ハイヤーセルフ)」「真我(全ての魂の集合体、ワンネス)」と説明しており、その内の「真我」を全体を内包する魂と言っている。「真我」以外はある種の階層構造になっており、「真我とは本当のあなたであり、すべてであり、それしかないひとつの意識です」と言っている。

前出のお釈迦様のお話を、引き寄せの法則の視点で解釈すれば、お釈迦様の愛と慈悲に裏打ちされた高い意識が、この状況をつくり出したわけで、改めてお釈迦様の自我が高いレベルで完成されていたことがわかるお話だ


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