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「獣」達の時代とその終焉

キリスト教聖書解釈学では、聖書の解釈は、基本聖書内の記述からするという原則を踏まえて解釈された「獣」は国家を表しており、その解釈の基礎になっているのがダニエル書7章4~7に登場する「獣」である。その上で、『「獣」達の時代』とは、聖書全般に出てくる「獣」という記述が伝える...

                                                                    エヘイェ・アシェル・エヘイェ אהיה אשר אהיה

出エジプト記3章13節~14節【新改訳聖書2017】

13、 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」

14、神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。

15、神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

16、行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現れて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。

「わたしは有って有る者。」【口語訳】と人間の「意識」

「エヘイェ・アシェル・エヘイェ אהיה אשר אהיה」の、「אהיה ehyeエヘイェ」はヘブル語の意味は「在る」で、1人称単数未完了形。אשרăšerアシェルが関係代名詞、これは、前段の「エヘイェ」を後段の「エヘイェ」が説明しているということになる。文法的には問題ないと言うことだが、これをどう訳すかの結論を人類は未だ出せていない。

「わたしは存在するもの」「わたしはなろうとするものになる」は、神様の存在の絶対性とヤハウェの絶対的自由意志が語られているとそれぞれ解されている。動詞「ハーヤー」היה未完了形は、過去から現在まで継続した状態を表し、黙示録の「今いまし、昔いまし、後に来られる方から」に通じている。

これは私の想像だが、、恐らくモーセは困惑したに違いない、そのことは、神様は創世記3章15節では、【「イスラエルの子らに、こう言え。『あなた方の父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、なたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠に私の名である。これが代々にわたり、私の呼び名である。】とイスラエルの伝統的な神様の名前を加えられておられることから推測できる。これは無知な人間に対する神様の配慮なのだろうか?

いずれにしても、人類は未だ神様が語られた【エヘイェ・アシェル・エヘイェ אהיה אשר אהיה】の意味がわかっていない。しかし、文鮮明真の父母様は、デカルト以来の二元論的議論と唯物的啓蒙主義に終止符を打ち、「先有」という概念で神、人、万物の存在と関係を一元的に論じている。そこで私は、「原理原本」の一部を引用しながら、私のライフワークである「意識」の探求に引き付けて、ブログを書いてみた。

文鮮明 原理原本【世界平和統一聖殿】第一章第一節生の発源は「先有」から(一)神は自分を知ることによって分かるP22~P26

1、多くの人間たちは、神の根本についてまでも知ろうとしている。やはりそれ自体が明白になることによって、天宙のすべてに対する円満な理解が始まることは明らかな事実である。そのため、人間は神から始まり、万物もまた神から始まることは認めるが、根本となる神はいかに始まり、その前には何があったのかと問う人間が多い。しかし、神という存在の根本よりも、実際の問題は、最も近いところにいる自分が問題である。

2、現実の自分という存在の根本も分からずに、神がいかに存在するかを語ったとしても、それは、例えば公式の根本単位となるもの自体が分かっていないのと同じである。単位数として存在するそれ自体の問題を確定してこそ、その公式を応用する第一歩が始まり、多くの基本公式とも連結することができ、その公式自体が明白になることは当然のことである。

3、それゆえ人間はまず、一つの単位体として公式の根本のような立場に立っている自我という一つの存在さえ確定すれば、他存在の決定についても如実な結果として推測され、そこに反影された根本自体も把握できるのである。したがって人間は、自分が「有(存在する)」か「無(存在しない)」かについて、まず疑問をもつことが根本にならなければならない。

4、それでは、自分が存在すのなら何を見て分かるのだろうか。良心を見てだろうか、それとも感覚を見てだろうか、あるいは体型を見てだろうか。問題はここから始まる。良心と感覚と体型が「有」だとすれば、何を標準としてそのように言えるのかを再度、吟味せざるを得ない。ゆえに、人間が「有」なのか「無」なのかを決める最初の分岐点を何によって定めるか、これを考えることが重要な問題である。

5、「有」と言えば、その相対となる「無」というものを連想させることは事実だが、人々の語る「有」とは、それ自体が何を標準として始まり、その始まりをどの限度まで拡大しようとしているのか、またその反面「無」とするのでれば、実体の「無」なる存在に対しては、始発点を定めてあげなければならないのではないだろうか。

6、それゆえ、人間自体が「無」や「有」を語るとき、ある存在が「有」に置かれているか「無」に置かれているか、その存在の実在を規定した上で語っていることを知らなければならない。つまり自分が「有」と語るとき、それ自体「無」なる存在を前提として成立する言葉である。

7、そうだとすれば、どこからが「無」なのか、その存在可否の根本を決定する中心存在は何かということが求められる。この存在は、自分を前在(前提として存在すること)条件として規定した基盤の上で「有」と「無」を決定し、判断をを下しているのである。これは、人々が存在の有無について語る行為を見れば、それが事実であることが分かる。

8、この事実は、自分が中心となっている事実を考えずに、自分以外の他の存在からその始発点を見出そうとすれば、様々な存在を確定できなくなってしまうことを意味している。それゆえ、自分が「無現有」と「無現無」との中間存在であり、一つの公式単位体型であるという事実を明白にすることが、今日の人間が背負った課業である。

9、したがって、自分に対して「有」と言うとき、それは良心でも、感覚でも、体型上でも実定(定立)できる事実を否定できないことから「有」というのである。そうだとすれば、「有」とは「無」の始まりを決定する基本行動によりこれが始まると言わざるを得ない。

10、その「無」を決定したとすれば、それを決定した存在が「無」の絶対値を認めて決定したのか、「無」と決定する程度(尺度)は何かということが疑問になるため、その「無」の出発点は「有」とどのような距離があるのか、これが非常に重要な問題である。すなわち「無」と言うとき、我々が見て見えないということがその決定の程度になるのか、また感覚できない程度になるのか、体型を構成できないことが程度になるのかということである。その立場の明白な点がどこかといえば、自分が有無を決定する中心存在である以上、我々の実存感覚圏内に属するところに「有」と「無」の出発点を定めているはずである。

11、そうだとすれば、人間が「有」と言うとき、実体だけの問題と考えてはならず、「無」と言うときも、その「無」は「有」と距離を置く絶対値をもっているのではなく、「有」と連関し継続する存在として、我々の感覚で感触できない、範囲外にある存在だということを意味するのである。それゆえ、この「無」というものは、より少ない「無」(無現無)へと進み得る(自分と無現無との)中間存在であることを示している。


アイルランド国教会の主教であり哲学者でもあったジョージ・バークリーGeorge Berkeleyは、「存在することは知覚されることである」を提唱し、彼の有名な問題提起は「誰もいない静かな森の中で、一本の巨木が倒れたとすると、果たして音はするであろうか?」である。彼の答えは「音はしない」だった。

このバークリーの問いかけは、現代においては量子力学の「観測されない物事は存在しない」でも引き継がれている。粒子や光子など極小の素粒子は、量子力学によって記述することができる。量子力学によれば、素粒子は、普段は確率として、ぼんやりとした霧の塊ように存在しており、観測を行なうまではその厳密な位置や速度などの状態を確定できない。すなわち物質としては存在しないことになる。

ところが、この非実在的な「観測されない物事は存在しない(見るまでは存在しない)」は、巨視的世界では仮説レベルでまだ完全に説明できていない。物理学者エルヴィン・シュレーディンガーErwin Schrödingerとアルベルト・アインシュタインAlbert Einsteinは、量子力学の「観測されない物事は存在しない」を嫌っており、これに対するパラドックスとして行った有名な思考実験が「シュレーディンガーの猫」である。それ以外にも、 1927 年にソルベイやその他の場所で開催されたイベントで議論された内容が、数十年後にボーアによって「原子物理学における認識論的問題に関するアインシュタインとの議論」が新聞記事として書かれた。

認識を疑う

文鮮明 原理原本【世界平和統一聖殿】第一章第一節生の発源は「先有」から(二)「一」と「〇」は境界を定めることは出来ないP27~P39

7、問題となる決定的存在はすなわち自分である。この自分がいまだ解決されていない謎であり根本問題である。したがって、まず天宙の基本単位とも言える自分について明白に会得すべきである。そうしてこそ他の存在が問題となる。自分について明白に解決すれば、それ以上の関連的事実に対しても認識することができるのである。それゆえ一人の自分を理解すれば、神についても、その存在の有無に対する問題は大きく論ずる問題ではない。

8、したがって、多くの人間が知ろうとしている神の根本がいかなるものかについては、まず被造体である自分の根本について、実感をもって理解しながら探求すれば、第一存在が意識存在としていらっしゃることが、確実性をもって自然に理解できるのである。そのような明白な体験を実行して求めてみれば、その存在を知ることができる。なぜなら、神は「絶大有」から「絶大無」の基本存在であり、いかなる面においても、単位となる路線に立って左右を求めれば、その存在は自然に体感されるからである。

9、その体感によって、神の存在についての根本問題を確実に解決することができる。なぜかというと、無限大から無限小へと通じる共通路程に流れる、無限大であり無限小の力は、公式のような法理(法則と原理)を通して連結されているため、どの中間の立場でも、その力に感応できる単位体として平衡線上に立つようになれば、無限大から無限小への流れを感知できるからである。

10、したがって、神は、無限大から無限小にまで連関する中心動力体であり、永遠を標準として始まり進んでゆく存在である。それゆえ、人間はその中間存在である。この中心存在が完成してこそ、天宙の公理法則は円満に働くようになる。すなわち、神は「無」にいらっしゃって「有」に作用し、人間は「有」から「無」へと作用しながら、円滑な授受作用を行って初めて円満存在になるというのが、天理であり創造原理である。
「認識論」の議論は、プラトンから現在まで継続してされてきている。最近はAI人工知能研究が進む中で、さらに議論が深まっている。我々が今見て感じているものが何なのか?それを外からくる情報と刺激としてとらえ、沸き起こる情動によって行動しているが、それら一連の認識から行動に至るまでの反復作用が、果たして脳の処理機能(物質的側面)だけで起こり得るのか?

上述のparagraph10には「この中心存在が完成してこそ、天宙の公理法則は円満に働くようになる。」は、天宙(無形有形全被造世界)の中心存在である人間の完成無くして、天宙の公理法則は円満に動かないと書かれている。この記述から分かることは、人間が天宙、無形有形両面にわたって影響を与えてしまっているといえる

量子論的視点で見れば、粒子同士が接触した場合、距離に関係なく光の速さを凌駕し、瞬時に必ず相関性が生じるquantum entanglementことが分かっている。神様、人、万物の関係性に於いて、entanglementしているということは、堕落人間は認識することが出来ないが、人間が完成していない今、天宙の公理法則は円満に働くことは無いと解される

ヨハネによる福音書9章39節~41節【新改訳聖書2017】

39、そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
40、そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
41、イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

イエス・キリストも我々の「認識」の誤りと、限界を指摘されておられる

私たちは自らの存在性を何によってどの様に知覚しているのだろうか?我々のいわゆる「主観」の感覚や「主体」意識はどこから来るのだろうか?「私」以外を対象化したときの「私」とは何なのか?何を拠り所として「私」以外を見て、考えて、感じているのだろうか?

文鮮明 原理原本【世界平和統一聖殿】第一章第一節生の発源は「先有」から(二)「一」と「〇」は境界を定めることは出来ないP38~P39

26、今の科学世界において、あらゆる原理と公式を利用し、応用して「有」へと展開させるのを見ても、根本の「有」が存在し、原理によって「有」なる存在を展開させるという原則の上でのみすべてが始まり、その目的達成へと進級することが分かる。科学が発達できるのも、原理的に存在する前有(前から存在すること)的な「有」が基本となり、その基本の上でのみその存在目的に向かって発達できることは事実である。

27、そのため、「無」から「有」という原理は、もともと我々が立てることはできず、「無」なら「無」なのであって、「有」になるのかというとなり得ないことは事実である。ゆえに(神は無であるとする)唯物論的原理も、自然とその末路は未解決となるのが原理である。「無」になるということである。つまり始まりが「無」であるため、末も「無」の結果となるのである。

28、「無」という存在を立てるためには、前有存在を立てておかなければならない。すなわち主観的に見れば自分の存在についても、あるいは客観的に見れば他物の存在についても、「先有」(先に存在すること)存在があるという事実を決定してから語ることである。したがって、あらゆるものの根本は「有」から始まったことを知らなければならない。人間は「有」という根本存在から始まり、万物もやはり「有」から始まったことは同一であり、そしてあらゆる作用も「有」の作用としてのみ始まるのである。(出エジプト記三章十四節)

29、このように、認識できるあらゆる関係や感覚、存在、自分に及ぶ作用は、根本的な「有」の作用が延長したものであることが分かる。それゆえ、「無」の占有位置は、視覚または感覚が認識できる範囲外であることを意味し、我々の自我である「有」が感覚するその感覚的作用は、とりもなおさず「有」から波及されてくるものである。

30、我々が視覚で見ることのできる圏外に「有」として存在するそれ自体、すなわち神と我々を連関する一つの位置に属している良心を通して、既存の「有」なる存在が我々に作用していることを感覚することができる。それゆえ、一人の人間は「有」と「無」の中和物となっている。


上述の(一部抜粋)、「文鮮明 原理原本」の冒頭に書かれてある「序文」から『第一章生の発源は「先有」から』は、神様を知るうえで大変重要であり、「エヘイェ・アシェル・エヘイェ אהיה אשר אהיה」の神様の理解には必読である

更に、文鮮明真の父母様は、神様の属性にはある構造が存在し、聖書と歴史を神様の属性に存在する構造を通して分析し更に解析することを通して、聖書と歴史に通底する根源的なパターンを解明された

フランスの社会人類学者レヴィ・ストロースLévi・Straussは、「親族の基本構造」と「インセスト・タブー(近親相姦の禁忌)」を研究し、人類に共通する構造(ルール)があることをつきとめた。

  •  私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が、わたしたちのものの見方、考え方、感じ方を基本的なところで決定している。
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  •  だから私たちは、自分が思っているほど自由に、あるいは、主体的にものを見ているわけではない。
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  •  私たちは、自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものであるという事実を、徹底的に掘り下げたことが、構造主義という方法の功績なのです。
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  • 内田 樹著「寝ながら学べる構造主義 」文春新書からの抜粋

「構造」という文脈で言えば、レヴィ・ストロースは、比較方法論や二項対立をつかって、目には見えない精神や意識の中に存在するある構造に人間が支配されていることを解明し、構造主義哲学の確立に貢献した。

しかし、文鮮明真の父母様は、人間ばかりではなく広く天宙(無形有形被造世界)全般に構造が存在し、その構造の本体が神様由来であるということを、一元的に説明された。弁証法も含めて、レヴィ・ストロースも活用した、比較方法論や二項対立等の思考の枠組みが、アイディアとして何故、自然発生的閃きが生まれて来るかは、ただ単に脳の機能だけでは説明できない

更に、それらの思考の枠組みを私たちが共通に認識でき、何故受け入れることができるかといえば、文鮮明真の父母様が解明された原理と、神様ご自身の中にそのような属性が存在するからに他ならない

人間の「意識」は在るもの

最先端科学は「意識」とは何かを探求している。以下の動画はDrベルナルド・カストラップ(Dr. Bernardo Kastrup)と世界的に活動をしておられる意識研究家エハン・ラヴィ氏との対談の切り抜き動画である。

Drベルナルド・カストラップ(Dr. Bernardo Kastrup)は、分析哲学者でありコンピューター工学博士、特にAIのスペシャリストでもある。彼はCERNで「大型ハドロン衝突型加速器 Large Hadron Collider」の開発にも関わったことがある。

彼のユニークなところはバリバリの科学者でありながら哲学者でもあり、名だたる脳科学者を論破している映像をYouTubeで見ることができる。彼の基本主張は、「宇宙の本質は意識である」人間に於いては「脳が意識をつくっているのではなく、意識が脳をつくっている」である。彼は対談の中で「AIで腎臓をプログラムしたが‘おしっこ‘はしなかったよ」と冗談を言っていた。要するにAIははただの人間世界をシュミレートSimulateしたに過ぎない便利なツールでしかないということ。私の問題意識は、人間がこの様なものを人間だと思ってしまうことであり、機械レベルに落とされ人間としての価値を見出せずにいることにある



「AIに意識が宿った」と叫ばれる日

結論めいた話だが、愚かな人間によって、機械に息を吹き込み新たな人間風玩具を生み出そうとするのか、神にでもなった気分を味わおうとしたいのか、文鮮明真の父母様によって下賜されたみ言の中で、神様が、人類救済のために万斛(ばんこく)の涙を流されたかが語られている。それをどうやってAI化するというのだろうか?神様の「真の愛」をどの様に数値化するというのだろうか?

AI人工知能(artificial intelligence)技術は、機械をより人間に近づける技術、或るいは、機械を人間化する技術と言える。またこれを別の見方で見れば、人間と機械を同一のプラットフォームとフォーマットで動かせる技術ということだ。その先には機械が人間と同等の存在となり、機械と人間が入れ替え可能になるという大変恐ろしい事も予想される

これから紹介する話は昨年話題になったものだが、Google社は現在開発しているAI「LaMDA(Language Model for Dialogue Applications)」(「LaMDA」に関する雑誌WIREDの記事リンク⇒グーグルのAI「LaMDA」の“意識の存在”を巡る議論が意味すること)の開発にかかわっている技術者ブレイク・レモインを突然解雇した。

取材した記者によればレモイン自身は、LaMDAとの交流によって今後に向けて悲観的どころか楽観的な姿勢が強まったと発言し、未来に心を躍らせている。その理由は、レモインがLaMDAとの長い会話記録のなかでLaMDAに対し、LaMDAがもつ感情で人間が経験しないようなものはあるかと尋ねた場面がある。「多大な危険をはらむ未知の未来へとわたしが傾いていっているような気持ちがあります」というのが、LaMDAの返答だった。

LGBTQ+の先にあるものが何なのかを想像してみよう。企てる者たちによって、ただの人間がプログラミングしたAIとそのプログラムによって動かされているコンピュターに、「意識」が宿った、機械に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」創世記2章7節のごとく叫ぶ日が突然来るだろう。

私が恐れるのは、医産行メディア複合体によって引き起こされたワ〇〇ンテロで経験したような、例えば「突然変異によって、高度な知性を持ったコンピュターに意識が宿った!」等ということを、マスコミによって一斉に喧伝されることである

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