出エジプト記3章13節~14節【新改訳聖書2017】
- 13、 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
- 14、神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。
- 15、神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。
- 16、行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現れて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。
「わたしは有って有る者。」【口語訳】と人間の「意識」
文鮮明 原理原本【世界平和統一聖殿】第一章第一節生の発源は「先有」から(一)神は自分を知ることによって分かるP22~P26
- 1、多くの人間たちは、神の根本についてまでも知ろうとしている。やはりそれ自体が明白になることによって、天宙のすべてに対する円満な理解が始まることは明らかな事実である。そのため、人間は神から始まり、万物もまた神から始まることは認めるが、根本となる神はいかに始まり、その前には何があったのかと問う人間が多い。しかし、神という存在の根本よりも、実際の問題は、最も近いところにいる自分が問題である。
- 2、現実の自分という存在の根本も分からずに、神がいかに存在するかを語ったとしても、それは、例えば公式の根本単位となるもの自体が分かっていないのと同じである。単位数として存在するそれ自体の問題を確定してこそ、その公式を応用する第一歩が始まり、多くの基本公式とも連結することができ、その公式自体が明白になることは当然のことである。
- 3、それゆえ人間はまず、一つの単位体として公式の根本のような立場に立っている自我という一つの存在さえ確定すれば、他存在の決定についても如実な結果として推測され、そこに反影された根本自体も把握できるのである。したがって人間は、自分が「有(存在する)」か「無(存在しない)」かについて、まず疑問をもつことが根本にならなければならない。
- 4、それでは、自分が存在すのなら何を見て分かるのだろうか。良心を見てだろうか、それとも感覚を見てだろうか、あるいは体型を見てだろうか。問題はここから始まる。良心と感覚と体型が「有」だとすれば、何を標準としてそのように言えるのかを再度、吟味せざるを得ない。ゆえに、人間が「有」なのか「無」なのかを決める最初の分岐点を何によって定めるか、これを考えることが重要な問題である。
- 5、「有」と言えば、その相対となる「無」というものを連想させることは事実だが、人々の語る「有」とは、それ自体が何を標準として始まり、その始まりをどの限度まで拡大しようとしているのか、またその反面「無」とするのでれば、実体の「無」なる存在に対しては、始発点を定めてあげなければならないのではないだろうか。
- 6、それゆえ、人間自体が「無」や「有」を語るとき、ある存在が「有」に置かれているか「無」に置かれているか、その存在の実在を規定した上で語っていることを知らなければならない。つまり自分が「有」と語るとき、それ自体「無」なる存在を前提として成立する言葉である。
- 7、そうだとすれば、どこからが「無」なのか、その存在可否の根本を決定する中心存在は何かということが求められる。この存在は、自分を前在(前提として存在すること)条件として規定した基盤の上で「有」と「無」を決定し、判断をを下しているのである。これは、人々が存在の有無について語る行為を見れば、それが事実であることが分かる。
- 8、この事実は、自分が中心となっている事実を考えずに、自分以外の他の存在からその始発点を見出そうとすれば、様々な存在を確定できなくなってしまうことを意味している。それゆえ、自分が「無現有」と「無現無」との中間存在であり、一つの公式単位体型であるという事実を明白にすることが、今日の人間が背負った課業である。
- 9、したがって、自分に対して「有」と言うとき、それは良心でも、感覚でも、体型上でも実定(定立)できる事実を否定できないことから「有」というのである。そうだとすれば、「有」とは「無」の始まりを決定する基本行動によりこれが始まると言わざるを得ない。
- 10、その「無」を決定したとすれば、それを決定した存在が「無」の絶対値を認めて決定したのか、「無」と決定する程度(尺度)は何かということが疑問になるため、その「無」の出発点は「有」とどのような距離があるのか、これが非常に重要な問題である。すなわち「無」と言うとき、我々が見て見えないということがその決定の程度になるのか、また感覚できない程度になるのか、体型を構成できないことが程度になるのかということである。その立場の明白な点がどこかといえば、自分が有無を決定する中心存在である以上、我々の実存感覚圏内に属するところに「有」と「無」の出発点を定めているはずである。
- 11、そうだとすれば、人間が「有」と言うとき、実体だけの問題と考えてはならず、「無」と言うときも、その「無」は「有」と距離を置く絶対値をもっているのではなく、「有」と連関し継続する存在として、我々の感覚で感触できない、範囲外にある存在だということを意味するのである。それゆえ、この「無」というものは、より少ない「無」(無現無)へと進み得る(自分と無現無との)中間存在であることを示している。
認識を疑う
文鮮明 原理原本【世界平和統一聖殿】第一章第一節生の発源は「先有」から(二)「一」と「〇」は境界を定めることは出来ないP27~P39
- 7、問題となる決定的存在はすなわち自分である。この自分がいまだ解決されていない謎であり根本問題である。したがって、まず天宙の基本単位とも言える自分について明白に会得すべきである。そうしてこそ他の存在が問題となる。自分について明白に解決すれば、それ以上の関連的事実に対しても認識することができるのである。それゆえ一人の自分を理解すれば、神についても、その存在の有無に対する問題は大きく論ずる問題ではない。
- 8、したがって、多くの人間が知ろうとしている神の根本がいかなるものかについては、まず被造体である自分の根本について、実感をもって理解しながら探求すれば、第一存在が意識存在としていらっしゃることが、確実性をもって自然に理解できるのである。そのような明白な体験を実行して求めてみれば、その存在を知ることができる。なぜなら、神は「絶大有」から「絶大無」の基本存在であり、いかなる面においても、単位となる路線に立って左右を求めれば、その存在は自然に体感されるからである。
- 9、その体感によって、神の存在についての根本問題を確実に解決することができる。なぜかというと、無限大から無限小へと通じる共通路程に流れる、無限大であり無限小の力は、公式のような法理(法則と原理)を通して連結されているため、どの中間の立場でも、その力に感応できる単位体として平衡線上に立つようになれば、無限大から無限小への流れを感知できるからである。
- 10、したがって、神は、無限大から無限小にまで連関する中心動力体であり、永遠を標準として始まり進んでゆく存在である。それゆえ、人間はその中間存在である。この中心存在が完成してこそ、天宙の公理法則は円満に働くようになる。すなわち、神は「無」にいらっしゃって「有」に作用し、人間は「有」から「無」へと作用しながら、円滑な授受作用を行って初めて円満存在になるというのが、天理であり創造原理である。
ヨハネによる福音書9章39節~41節【新改訳聖書2017】
- 39、そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
- 40、そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
- 41、イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
文鮮明 原理原本【世界平和統一聖殿】第一章第一節生の発源は「先有」から(二)「一」と「〇」は境界を定めることは出来ないP38~P39
- 26、今の科学世界において、あらゆる原理と公式を利用し、応用して「有」へと展開させるのを見ても、根本の「有」が存在し、原理によって「有」なる存在を展開させるという原則の上でのみすべてが始まり、その目的達成へと進級することが分かる。科学が発達できるのも、原理的に存在する前有(前から存在すること)的な「有」が基本となり、その基本の上でのみその存在目的に向かって発達できることは事実である。
- 27、そのため、「無」から「有」という原理は、もともと我々が立てることはできず、「無」なら「無」なのであって、「有」になるのかというとなり得ないことは事実である。ゆえに(神は無であるとする)唯物論的原理も、自然とその末路は未解決となるのが原理である。「無」になるということである。つまり始まりが「無」であるため、末も「無」の結果となるのである。
- 28、「無」という存在を立てるためには、前有存在を立てておかなければならない。すなわち主観的に見れば自分の存在についても、あるいは客観的に見れば他物の存在についても、「先有」(先に存在すること)存在があるという事実を決定してから語ることである。したがって、あらゆるものの根本は「有」から始まったことを知らなければならない。人間は「有」という根本存在から始まり、万物もやはり「有」から始まったことは同一であり、そしてあらゆる作用も「有」の作用としてのみ始まるのである。(出エジプト記三章十四節)
- 29、このように、認識できるあらゆる関係や感覚、存在、自分に及ぶ作用は、根本的な「有」の作用が延長したものであることが分かる。それゆえ、「無」の占有位置は、視覚または感覚が認識できる範囲外であることを意味し、我々の自我である「有」が感覚するその感覚的作用は、とりもなおさず「有」から波及されてくるものである。
- 30、我々が視覚で見ることのできる圏外に「有」として存在するそれ自体、すなわち神と我々を連関する一つの位置に属している良心を通して、既存の「有」なる存在が我々に作用していることを感覚することができる。それゆえ、一人の人間は「有」と「無」の中和物となっている。
- 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が、わたしたちのものの見方、考え方、感じ方を基本的なところで決定している。
- だから私たちは、自分が思っているほど自由に、あるいは、主体的にものを見ているわけではない。
- 私たちは、自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものであるという事実を、徹底的に掘り下げたことが、構造主義という方法の功績なのです。
- 内田 樹著「寝ながら学べる構造主義 」文春新書からの抜粋
人間の「意識」は在るもの
「AIに意識が宿った」と叫ばれる日
にほんブログ村
にほんブログ村