- □ 第一の獣:バビロニア帝国(BC625~BC539)
- □ 第二の獣:メド・ペルシャ帝国(BC539~BC331)
- □ 第三の獣:ギリシャ帝国(BC331~BC168)
- □ 第四の獣:ローマ帝国
第一から第四の獣の内、バビロニア帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国は動物の名で表せられている。しかし、何故か第四の獣ローマ帝国には象徴的な動物の名が無い。既存の動物では表せない国ということになる。
その理由は、ローマ帝国は発展過程で、国家の統治機構や形態を変えてきたからだということだが、ここからは私のまったくの私的な主観的推論だということをお断りしたうえで、この第四の獣(この獣はヨハネの黙示録にも登場し、バビロン淫婦とも親和性がある)は、その支配は現在まで続いており、ローマ的な本質を踏襲し備えた国、あるいはフレキシブルに統廃合する統治機構そのものを表していると私は考えている(詳細は割愛する)。
確かに国際政治を説いている賢者達の理論の根底には、聖書に登場する「獣」の人間観があり、その「獣」の性質を受け継いだ統治者達らの紛争が戦争であり、それを踏まえて如何にその脅威をいち早く察知し、それらを回避するための施策や外交交渉等を駆使し、身を守るかを説いているのがリアリズム外交であり、バランスオブパワー外交であると言っている。
又、国際政治評論家伊藤寛氏は、これら賢者達、例えばシカゴ大学国際政治学者ジョン・ミアシャイマー(John Mearsheimer)氏や、カリフォルニア大学国際政治学者ケネス・ウォルツ(Kenneth Waltz)氏等の理論や思想を踏まえて、特に以下の二点をもって警鐘を鳴らしている。先ず一点目は、統治者、為政者、統治機構の構成者たちのintellectual integrity(知的誠実さ)や、moral integrity(道徳的誠実さ)の世界的な低下と、二点目は、日本に言及したもので、日本の政治家、官僚においてはこの観点が全くのゼロで、又、これら賢者たちの著書も読んでいないく、これら理論を議論の俎上(そじょう)にすら上げず、欧米従属と欧米服従のみと氏は日本の末期的危機を述べていた。
私は、「獣」が跋扈(ばっこ)する艱難時代だからこそ、「鉄の杖」の信仰と、肉のレベルまで落とし込んだ哲学思想を体恤させるため、内外の修練と鍛錬が必要であると感じている。そのことの意味は、刀工が鋼を鍛えるが如く不純物を排除し、純度を高めるために必要だと理解している。先人鎌倉武士達が自己修練、自己鍛錬のために、道元禅師の「正法眼蔵随聞記」を自らの基に置いたように、私たちは「鉄の杖」の先にある聖書と天地人真の父母様のみ言を自らの基に置くことに躊躇いは無い。
その上で今回は聖書の「獣」の記述に引き付け、この獣に象徴される国家あるいは、国家の形態をとらない統治機構(連合体組織、合意組織機構等)の中核にいる人達を「企てる者達」と称し、これらを構成している人達の集団、グループの立ち振る舞いの特徴を敢えて「所作」と呼び、備忘録として書いてみた
分断と統治Divide and Conquer
歴史を見れば、企てる者達はまるで儀式のような立ち振る舞いでこれ(分断と統治Divide and Conquer)を行う。もう病気のようであるが、実は心の根に人類始祖において入れ込まれた、人間の次元ではとうてい解決できない、それも無意識レベルで作用する深刻な病巣がある。
では何故私たちは企てる者達に支配されてしまうのか?それは、いつも支配される側の人々は、太極(神様の立場)に立てず全体が見えていない。なので部分の互いにささいなことで争ってしまう。そのことを良く知っている企てる者達は、お互いを争わせることで、支配階層に対する批判の矛先を逸(そ)らすことができ、力を分散させることができる。分断統治とは、人々の大極観の欠如によってもたらされる、差別意識や優越意識を巧みに利用し統治する方法だということを押さえとく必要がある。
歴史の教科書等では、分断と統治Divide and Conquerの起源は、古代ローマが地中海世界を支配した際、征服した都市に対して個別に同盟関係を結んで、横に連携してローマに対抗出来ないようにした統治法と言われている。古代ローマの時代からある非常に古い言葉だと言われている。
近代では、イギリスが18世紀中頃からインド植民地支配を推し進め、主にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用し、それぞれを個別対応することによって対立させ、団結し独立運動勃発を妨害しようとした政策に利用した。
そこで先ず取り上げるのは、近現代史においてイギリスは帝国的野心を土台に、分断と統治を企ててきた。産業革命以後世界最高の工業生産国となったイギリスは、経済合理性から見て、当時最大の綿輸出国インドとの貿易の海路として、地中海から紅海、インド洋に抜けるルートと、更にもう一つは地中海からトルコを経由し、ペルシャ湾に出るルートを確保する必要があった。そのためにおこなった政策がトルコ帝国からエジプトを分断し、スエズ運河権益を握ることだった。
1875年、スエズ運河会社の株をイギリスがエジプト政府から買取り、それを足場としてエジプト支配に乗り出す。エジプトは以前からオスマントルコからの独立を企てていた。そこでイギリスは、エジプトへのスエズ運河会社の買収によって経済進出し、最終的に第一次世界大戦を機に、オスマントルコ帝国を軍事的に打ち負かし、エジプトを保護国とすることで、オスマントルコ帝国から引き離すことに成功した。
イギリスのスエズ運河会社買収のための資金を出したのは、ロンドンロスチャイルドだ。又、19世紀のヨーロッパで出現した人種的偏見思想、反セム主義に基づいた反ユダヤ主義から逃れさせるために、ヨーロッパを中心にユダヤ人達のイスラエル建国運動が起こる。ここにも彼らロンドンロスチャイルドが資金提供した。因みにオスマントルコ帝国や中東アラブではユダヤ人の迫害は無かった。
更にイギリスはもう一つの地中海からオスマントルコを経由し、ペルシャ湾に出るルートを作るために、オスマントルコに対して不満を持っているアラブ人を支援する形をとって分断を企てる。
ドレフュス事件を取材していたオーストリア人記者テオドール・ヘルツルは、もはや我々ユダヤ人の住むところはヨーロッパにないと、1896年、シオニズム運動のさきがけをなす著作『ユダヤ人国家(英語版)』を出版し、失われた祖国イスラエルを取りもどすシオニズム運動を起こす。
テオドール・ヘルツルはユダヤ人国家の建設を主張しているが、ユダヤ人国家の建設地としては、必ずしも聖地エルサレムがあるパレスチナにこだわらず、南アメリカのアルゼンチンや、アフリカのウガンダも候補地にしていたといわれている。
結論をいえば、パレスチナへのイスラエル建国は、イギリスの中東権益とユダヤ人の約束の地への帰還を達成させるための中東分断の企てと見ることができる。
このことはその後、イギリスの貿易ルート確保から、石油権益確保へと移行し、中東の覇権はイギリスからアメリカへ移ってゆく経緯を見ても明らかだ。アメリカはイスラエル保護のために、数々のテロ組織をつくり、中東分断を企てて来たことは事実である。
イギリスの三枚舌外交はあまりにも有名な話なので、改めて詳しく書くつもりはないが、現在今起こっている中東、パレスチナ問題を理解するのには、近現代ヨーロッパ、中東史を語るにおいて必ず引用される「フサイン=マクマホン協定」「バルフォア宣言」「サイクス・ピコ協定」だけ、確認と整理のため書くことにした。
「フサイン=マクマホン協定」名門ハーシム家が願った統一アラブ国家願望を利用し(私には結果的にそう見えてしまうし、そう見ている方も多いと感じている)中東権益のための支配と、ある特定民族保護のための支配(ローマ帝国的な支配とは違う)。
「サイクス・ピコ協定」
この時に引かれた国境が、現在のアラブ諸国の国境となっている。その後中東の石油利権は、ヨルダン、イラクはイギリスの石油メジャー セブンシスターズの一角を占めたBP(ビーピー : BP plc、旧ブリティッシュ・ペトロリアム The British Petroleum)が握り、サウジアラビアはアメリカ ロックフェラーの支援を受け油田開発が行われたので、スタンダード石油が権利を得ることになった。BPはロスチャイルドである。
「バルフォア宣言」
第一次世界大戦中の1917年11月2日に、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、第一次世界大戦に際してユダヤ人の支援を取り付けるため、戦後パレスチナにユダヤ人の国家を建設することに同意した宣言。それは、イギリスのユダヤ系貴族院議員であるロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡の中で表明された、実質的なイギリス政府のシオニズム支持表明となった。又、この宣言をアメリカシオニスト機構に伝えるようロスチャイルド卿に依頼した内容が書かれている。
- (引用)私は国王陛下の政府を代表いたしまして、ユダヤ人シオニスト諸君の大望に共感を示す以下の宣言を、閣議の同意を得て貴下にお伝えすることができて非常に悦ばしく思っております。「国王陛下の政府はパレスチナにおいてユダヤ人のための民族的郷土(ナショナル・ホーム)を設立することを好ましいと考えており、この目的の達成を円滑にするために最善の努力を行うつもりです。また、パレスチナに現存する非ユダヤ人諸コミュニティーの市民および信仰者としての諸権利、ならびに他のあらゆる国でユダヤ人が享受している諸権利および政治的地位が侵害されることは決してなされないことはないと明確に理解されています。」
貴下がこの宣言をシオニスト連盟にお知らせいただけましたならば光栄に存じます。
- アーサー・ジェームズ・バルフォア
守るという意思が無ければ殺れることを忘れた日本人
この章の冒頭でお伝えしたい情報をご紹介する。2010年1月20日にパレスチナのハマース軍事部門創設者マフムード・マブーフがアラブ首長国連邦のドバイで暗殺された事件だ。イスラエル諜報特務庁(モサドMossad)の犯行だといわれている。
- 【2月28日 AFP】パレスチナのイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)幹部がアラブ首長国連邦のドバイ(Dubai)で暗殺され、イスラエルの情報機関の関与が取り沙汰されている事件で、殺害されたハマス軍事部門のマフムード・マブフーフ(Mahmud al-Mabhuh)司令官は弛緩剤で鎮静状態に陥った後に窒息死させられた疑いが強くなった。
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パレスチナのイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)軍事部門のマフムード・マブフーフ(Mahmud al-Mabhuh)司令官暗殺容疑者の、ドバイ(Dubai)出入国の足取りを記した図(2010年2月24日、ドバイ警察提供)。(c)AFP/DUBAI POLICE |
イギリスの報道機関は、イスラエルの諜報機関モサドの犯行と断定して発表した。ドバイ警察は欧州の11人の容疑者のパスポートの氏名と写真を公開(2月28日容疑者は28人に増えた)。国籍の内訳は英国が6人、アイルランドが3人、ドイツとフランスが各1人だった。英国とアイルランドの旅券は偽造であったことも判明したと発表している。今現在実行犯は誰一人捕まっていない。
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アラブ首長国連邦のドバイ(Dubai)で実行されたパレスチナのイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)軍事部門のマフムード・マブフーフ(Mahmud al-Mabhuh)司令官暗殺の容疑者と思われる人物2人がホテルに到着した映像(2010年2月24日、ドバイ警察提供) |
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左の写真は、ホテルの外で監視する女性実行チームと仕事(暗殺)を終えてホテルから立ち去る実行チーム。右端の写真は、実行犯がホテルスタッフとエレベーターに乗ろうとしている(赤丸)。手前の二人、テニスラケットを持って観光客を装っている暗殺実行犯。。 |
暗殺されたパレスチナのイスラム原理主義組織ハマス(ガザ地区の過激派)の軍事部門の幹部、マフムード・マブーフ(Mahmud al-Mabhuh)氏
ドバイ警察によれば、マブーフ氏は両足と後頭部、性器、心臓付近に電気ショックを受けた跡があり、枕には血が付いていたことから、死因は窒息死と見られるが、麻酔薬としても使われる筋弛緩剤サクシニルコリンsuccinylcholineを 注射をされていた。
これ以外にもイスラエル国家とモサドが関与し実行した血生臭い出来事は沢山ある。しかし、想像力を働かせてみれば、到底認めることは出来ないが、周りを敵に囲まれた中で国家が生き残るための行為だということは理解は出来る。
この様なことをやってきたイスラエルが、10月7日のハマスの演出された奇襲攻撃を事前に察知できなかったとは考えにくいと私は強く感じている。
又、イスラム教を中心に、各宗派(スンニ派、シーア派)、各民族(アラブ人、ペルシャ人他少数民族等)の立場に立てば、彼らはいつも欧米によって分断され、迫害され殺されてきた(暗殺も含む)。
エジプト ナセル大統領を継承したアンワル・アッ=サーダート大統領。彼はメナヘム・ベギン首相との間で、1979年にアメリカ キャンプデービッドで平和条約を結んだ。しかし、彼は1981年10月6日パレードを観閲中にイスラム復興主義過激派のジハード団に暗殺された。イスラエル側では、PLOアラファト議長と1993年にオスロ合意に調印したイツハク・ラビン首相、彼もまた1995年11月4日、テルアビブで催された平和集会に出席した際、和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルから至近距離より銃撃され、死亡した。
当然アジア圏に住んでいる私たちも、企てる者達による分断を考慮しなくてはならない事を申し上げたい。
文鮮明真の父母様が願った事