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父性排撃から生まれる女神信仰と聖母信仰そして警戒すべき母子礼拝

父を敬わない人の人生と民族と宗教の行く末 文鮮明先生のみ言主題別精選「地上生活と霊界」(上)成和出版社1995年初版34p一、有・無形世界での人間の存在2.人間の位格1)神様が人間を創造した目的  神様が人間をなぜつくったか?第一は、神様自身が父母の立場に立つためです。父母は、霊界でも無形です。模型がありません。それで、形を持った人間の父母になるためには、形を持たなければなりません。そうでなければ、中心になりえないのです。  二番目は、何かというと、縦的世界では、垂直線が一点にとどまります。面積がないのです。すなわち、霊界では繁殖がないのです。垂直の次元でそれを横的に展開して三百六十度の球体になる場合に、多くの空間が生じるようになります。その空間内には、繁殖して天国の国民を生産するための基地としての肉身の基台が必要になるのです。分かりますか?  三番目は、愛の相対圏の永遠性を維持するためです。何のことかというと、神様の前に相対になることは、アダムとエバだけではないというのです。アダム・エバが相対の位置に立つのと同時に、その子女たちも相対の位置に立つようになるのです。分かりますか?ですから、神様の相対的なその位置を永続的に保存させるため、人間を創造したのです。何の話か理解できますか?アダム・エバも神様をお父さんと呼びます。では、その子女たちは、神様をおじいさんと呼びますか、おじいさんと呼びますか?(お父さんと呼びます)。そのようになるのです。相対というのは、歴史的影響を受けません。分かりますか?平等なものです。神様の愛を中心として、縦的な一つの愛を中心として、どれほど多くの人たちが横的に繁殖し、その愛の価値を完成するか?完成したあいの価値は、一つです。平等なのです。 失われた神様と人間の関係の復帰は、神様が人間に向かい人間が神様に向かう垂直性に現れる 文鮮明真のお父様(以下、愛と尊敬を込めて「お父様」と表記)のみ言から、旧約聖書に記されている父性の根源は、神様が人間を創造されたことに起因すると結論付けできる。さらに人間は永遠に持続的に神様を父として愛し、慕い求める存在(「愛の相対圏の永遠性を維持するため」)であり続けると語られた。そのことは何を意味するかと言えば、神様は人間を永遠に愛するために創造されたことを...

人は必ず幸せになれる

はじめに

文鮮明師の言の一部を私なりに「幸せ」に引き付けて解釈し簡単に要約すれば、本来人間は主体的に自由に人生を有意義に満足して生きることができた。心の在り様そのままの人生を生きたとしても、心に瑕疵(かし)が無く、良心の呵責が生じなかったと。更に自身の生き様自体が、神様の喜びの対象となり、神様の喜びの波動が自分自身の最高の喜びになり、まさに神と人が一体となった歓喜に満ちた人生を生きることができたと、このような趣旨のお話を何度もされておられる。人知をはるかに超えた人生観である。

文鮮明師の七男の文享進牧師(以下文牧師)は父である文鮮明師から後継者、相続者として推戴され上述した生き方を体現されている方である。文牧師が語られる宗教哲学を背景とした多くの教養は、文鮮明師の理念を紐解くうえで私も多くの示唆を受けている。文牧師は宗教哲学的教養と共に、卓越した行動力で多くの若者たちを指導している。当ブログで掲げている「IRON ROD」は、文牧師の精神とそれに基づく行動の象徴であり、私もそれに近づきあやかりたいと掲げた「おまじない」である

幸せって何だろう What is joy?

ある人は、人生を考える上で二つの「M」を提唱されている。一つは「人生の意味meaning 」と二つ目は「人生の目的mission」である。私は神様の創造の目的を知っている立場から、敢えてそれらにもう一の「M」をつ付け加え人生を考えることにした。それは神様から与えられた生命を全うする上で「人生の意味meaning 」と「人生の目的mission」を成し遂げるための心身一体のための動き全般を含めての「motion」である。恐らくこれを人生の中でそつなく行うことができれば幸せを掴むことができるだろう。

保守思想家西部邁氏は、主体subjectの原義は「神様のsubとしての人間存在から来ている」と説明をされていた。そこで私は、人が真の意味で主体的になれるのは神様のsubすなわち神様と一体化した時であると解釈した。哲学において「主体subject」の語源「subjectum」は、アリストテレスの基体「hypokeimenon」であり、質料、形相、両者の結合体、属性の担い手、判断の論理的主語等を意味し、中世では認識の外に実在するものととらえられていた

幸せを哲学的な思考で表現すれば、神様のsubとして神様と一体となれば今のささくれた世の中を主体的に能動的に生き生きと、決して停滞することのない喜ばしい人生を生きることができる。

私は文牧師のように実の息子ではないが、文鮮明師を心から愛しており父と呼んでいる。こんな私でも神様につないでくださったからだ。そのためにご苦労されたことを心の痛みまで決してすべてではないが知っているいるので、私にとってはその価値は計り知れない。


全ての人は幸せに生きられる

以下の動画はYoutube「ひすいこたろうの名言セラピー」さんの番組で、エコビレッジビルダー山納銀之輔氏を紹介しているものだが、「幸せ」を考える上で大変参考になるのでご紹介いしたい。尚掲載ビデオは切り抜きだが、全編に関心のある方は「ひすいこたろうの名言セラピー」さんの番組を見て頂きたい。

エコビレッジビルダー山納銀之輔氏は、若い時に起業し会社を成功させてゆくが、実際会社を経営してみて分かったことは、そこに人生の本当の目的が無かった。そして多くの挫折と失望の只中にあって自殺をしてしまうことになり、臨死体験を経験する。


彼は臨死体験を通して人生の舵を大きく切り幸せを掴んだ。その生き方とはありのままの自分を生きることだと彼は言っているように聞こえる。私は幸せとは神様が私をつくられたそのままの人生を体現するときに得られると確信している。

文鮮明師の言では、今は、私たちが望めば神様と直接対話できる時代だと言われて久しいが、今改めてそのことを実感し、良き時代の訪れを心から感じる。

私は私であることを選ぶ

ルカによる福音書15章1節~7節 10節

1、さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2、すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
3、そこでイエスは、彼らにこのようなたとえ話をされた。
4、「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5、見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
6、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
7、あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
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10、あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」
私は私を選び私の人生を歩む。何故なら神様が私を探し出し、悔い改めた私を抱いてくれ、人生の幸せを導いてくれたことを確信しているからだ

人は必ず死を迎え、神様の御元に行く。文鮮明師は人は60歳を過ぎれば神様の御元に行く準備をしなさいと言われた。人は死を避けることは出来ない、しかし残念ながら人は必ず死ぬという真理の臨場感に遭遇しなければ、死を肯定的に受け入れ人生の意味と正対しない

私と私の家族は幸運にもキリストによって神様に繋がることができた。真の幸せは神様と一つとなって得ることであることを確信をもって言える。皆様がキリストに繋がることを深くお祈りする。

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