善と悪を見分けることができなくなってしまった世界
私には心の底にキリスト教的ベースがあり、そのことは自身の内心に向けてもそうだが、絶えず神様と悪魔(サタン)、そして善と悪を見分ける視点があるということである。そして悪は善をもってでしか克服できない事をつくづく実感する。究極は悪は善に恰も飲み込まれるように消えてゆく、これは甘い期待感や希望ではない確信だ。それではその善の根源は何か、何処から来るのか、そのことを文鮮明真の父母様(以下愛と尊敬を込めて”お父様”と記述する)は、神様の真の愛と語られた。悪の根源である悪魔(サタン)を真の愛で昇華させることが神様の究極的な御業であるということを語られた。
私の心の底にはこの強い信念の核心があり、襲ってくる不安と恐怖からの唯一の克服理由をこの核心に置き家族で共有している。そして、お父様の悪を善に昇華させるという強い信念は「サタン屈服」という美しい言葉に集約されている。
それではここで言う善悪を、日常の中で何が善で何が悪なのかを一義的に説明することは恐らく不可能であるし、仮に善と悪を見分けることが出来たとしても、人生の事ある度に襲ってくる容赦ない外からと内からとあたかも試されるような狡猾な試練を瞬時に判別し、何気ない生活の中で乗り越えることは大変困難なことである。イエス・キリストとお父様はこう言われる、「神様は人を愛するために創造された」と、ひょっとしたら私たちはそのことの実感を、今もってもさらにこの先将来も心の中心に置くことでしか超えることができないのではとさえ考えてしまう。
上述した「サタン屈服」に対するお父様の強い信念は、ご生涯の姿に貫かれていることが実際の生き様として記録が残されている。私もサタンを屈服させるための日々拙(つたな)い人生を歩んでいるが、周りの友人達にもこの生き方を心からお勧めしている。
目に見える形ある世界だけを見て育った私達には分かりにくいが、魂、心、精神という言葉に寄り添って世の中を見つめれば、目で見ている世界から感じ取れる以上の強さで、感情を伴い脳に映像が映し出される人もいることを発見する。私たちは脳の構造から見て理論上超4次元世界は認識できないといわれているが、また一方では目には見えないが超4次元世界と繋がっているのではないかという部位が、脳には存在するとも言われている。両論ある中で今出せる結論は、科学だけでは我々が経験する全てをまだ記述できないということである。
私達は脳の認知機能によって感覚されるものは全て脳で処理されているという強い信念を持っている。なので神様をイメージする時も無意識に神様は「何時から何処に」というように「空間」的に規定しまう。このように感覚されるものは全て脳の認知機能を無意識に働かせてしまう人類に共通する挙動や思い込みは、お父様の理解を自然と歪め狭めてしまっていると私は考えている。なので私が皆様にご提案するのは、神様をより深く理解するためにも聖書の以下の聖句の意味を、お父様のみ言を通して再解釈することによって、未だ解決されない根本問題としてある神様の実存の議論をより深めてゆくことができるのではということである。
出エジプト記3章13節~14節【新改訳聖書2017】
13、 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
14、神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。
サタン屈服には「縦的」八段階と「横的」八段階があり、「縦的」とは神様の心情の世界(心情は量を持たないので規定できない。量を持たないので重力を持っていない。位置を特定できないし、測定もできない。)であり、僕の僕、僕、養子、庶子、実子、母、父、神までを各段階として八段階と呼び、「横的」とは個人から始まり神様までの空間的な量を持ち規定出来る「場」の広がりをそれぞれ個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神までを各段階とし八段階と呼ぶ。「縦的」領域と「横的」領域は相互関連し影響を与え合う。「縦的」領域は「過去」「現在」「未来」の流れに拘束されない恰も「量子もつれ」のような「もつれた」関係があるので全ては「今」に集約されていると私は考えていて、分かりやすい表現を使えば「過去」「現在」「未来」はお互いに繋がり合い影響を与え合っている。
下に示した概念図は、縦軸の一番下にある「僕の僕」(上述した「縦的」の説明と一見すると矛盾するように思われるが、これに関する詳細な説明は長文になるため割愛する。お父様は全人類は例外なく僕の僕から始まると語られ、イエス・キリストもお父様もこの立場を行かれた)を横軸の「個人」からはじまり、自身が主体の立場で対象となる同時代に生きる他者との関係において、その他者を愛で屈服させる(言語化は非常に難しいが、敢えて私の体験感覚で言えば、これが成立した感覚は両者においてこの上もない心の中から通じ合える感動的な出会い感覚であり、自分よりも相手が喜び感動する姿こそが自らの喜びになるような感覚等、そのことをお父様は旧約聖書創世記33章にある弟ヤコブと兄エソウの歴史的な和解を例に説明され、この和解こそが「弟ヤコブが兄エソウを屈服させた」「サタン屈服」のモデル的内容であると語られている。)ことによって縦軸の一段上の「僕」へと昇華してゆく概念図である。
私が留学していた韓国天安市にある鮮文大学元総長李京埈(이경준)女史が、お父様との思い出を話された時があった。それは李京埈女史がお父様に「縦的八段階横的八段階」の勝利が神様の救援摂理、復帰摂理において「具体的にどの時点であったかの説明はできるのでしょうか。」(※私がこの話を伺ったのは李京埈女史直接ではない。間接的に聞いた内容であるため使われている文章や文言の正確性は欠いているということを前提にしていただきたい。)」と尋ねたところ、お父様の答えは「もちろん説明できる」というものだった。
「縦的八段階横的八段階」とは再臨摂理を知るうえでとても重要な内容であり、悪魔サタンを屈服させる唯一の方法手段である。神学上の単純な概念や理論学説、あるいは個人が抱く観念の話ではなく、実際の実態でサタンを屈服(お父様においては当然サタンが屈服したのを確認している)させた内容であることが上述したお父様と李京埈女史とのやり取りで理解することができる。即ち「縦的八段階横的八段階」には64段階で壮絶なお父様とサタンとの死闘があったということであり、決して暴力的な行為によるものではない、絶えず犠牲を伴う悲しい人類歴史全般全体の中で繰り広げられてきた心情的悲哀に満ちた(イエス・キリストのご路程に通じる)全てを喜びに変え、神様に捧げられてゆかれたご路程であったと私は理解している。詳細な内容は、お父様の1989年8月31日アメリカ合衆国アラスカ州コディアックで「八定式(ハチテイシキ)」について語られた中に出てくる。
動物園の放飼場(ほうしじょう)では象の足に鎖は基本着けられていない。但し飼育員の安全を確保するため、寝小屋の中では足に鎖の装着が義務付けられているそうだ。動物園の象は足に鎖がつけられていなかったとしても決して逃げることはない。
これは幼少期に足に鎖が着けられて育っているために逃げることができないという一種の刷り込みがあるためだそうだ。このような生態は象ばかりではなく他の動物や生物にも見られる。盆栽なども鉢という植えられた環境に沿って何故か成長が抑制されてしまう。
私達も同様なことがある。経済学用語で「経路依存」という言葉があるが、簡単に言えば過去に呪縛され自由な判断と決定ができなくなってしまう一種の「依存」状態から無自覚、無批判に経路に従ってしまう傾向性である。これは私の感想だが「バカの壁」にも通じるような本来的人間の在り様から見れば「病」の様なものが傾向としては特に日本人に多く見られると感じている。
直近で言えば、科学的な合理性やデータから見ても根拠のない”おまじない”のようなマスク装着率は90%を超える異常な状態でも違和感を感じず、ワ○○ン接種率もダントツ世界一である。そんな日本であるためビッグファーマーの餌食になり、日本人が治験情報を得るためのモルモットにされつつある。
安倍晋三元首相の暗殺を分岐点として、悪魔的世界が露わになった。米英の悪魔と契約を結んだ勢力(企てる者達)による日本支配が露骨に隠されもせず表面化している。第一次安部内閣で安部元首相が掲げられた「戦後レジュームからの脱却」の真の意味の理解と、キリスト教的終末時代におけるサタンの血統と決別した日本人としてのアイデンティティの起源を模索し、構築すべき真の「脱構築」が切実に迫っている。
私は「安倍晋三元首相の暗殺」をキリスト教的人類全史観と結び付けることによって、深部にある本質の一側面を理解することができると考えている。お父様は2009年の時点で第二次安倍内閣を預言した。このことの深い意味は十分に理解してはいないが、少なくとも神様は安倍晋三元首相を用いて復帰摂理の最終段階を進める上で、神様とお父様がトランプ前大統領と共に非常に重要で危険な歴史的な役割を担わせていたのではないかと推測している。
その深刻な使命者としての立場の自覚と使命の重要性を恐らく一番知っていたのではないかと思われるトランプ前大統領は、昨年10月2日アイオワで選挙キャンペーン集会中に「Greate gentleman you know They took his life they assassinated Shinzo Abe one of the greate‥」と発言された。それも違う場所を含めて数度に渡って発言されている。どんなに鈍くとも、山上被告単独犯ではない事はこの発言からも分かるはずだ。
私たちはもういい加減に自らに課せられていると勝手に思い込んでいる「象の足かせ」を外す時ではないのか?自らの手でやらなければ恐らく神様は強引にでも待ったなしで行うはずだ。
神と人を結びつけるものとして宗教があるが、宗教を無条件に受け入れることのできる人間には何らかの才能や環境的与件や、そういったものを起点としてのある程度の素養が必要である。そこで人間自体と人間が営む日々生成変化する側に立ってみた時に、その存在が自明でないと支障を来すものに「真理」、「物質」、「時間」、「空間」、「論理」、「法」、「心」、「正義」、「命」、「愛」等があり、更にこれらを前提にしたもっと日常の場面では「仕事とはなにか」、「家庭とはなにか」、「人間関係とはなにか」等がある。
歴史を見れば上述の前段に挙げた諸概念を哲学の対象として定義、規定しきたことがわかる。その土台の上に私たちは日常の例えば「仕事とはなにか」、「家庭とはなにか」、「人間関係とはなにか」等を解釈し行動し過ごしてきたが、しかし、未だ上述した根本的な命題が解決されていないために、日常の諸問題を一時しのぎのパッチワークのように、解決策と称する付け焼き刃的な問題解決にもかかわらず、恰も解決したかのような思い込みを繰り返しているように見える。例えば人間関係において「正義」は「ない」とするのか「ある」とするのかによって全く違う関係性が生じてしまうが、そもそも「正義」自体何なのかが解明されていないし、定義されていないにもかかわらず、「正義」という曖昧な概念だけを纏った言葉が世を惑わすレトリックとして使われてきたことも事実である。
ただ成り行きで生きるのではなく、生きるにおいてそれらが定まらなければ人生に支障を来すものが真実に「ある(存在する)」のかを問うた場合、「ある(存在する)」とすれば、その本質は何かを問うてきたのが「哲学」であり「哲学」的姿勢ではないだろうか。
ところが、その問いの起点となる「ある(存在する)」という概念自体を問いの対象とするのは困難であり、おのずと「ある(存在する)」自体をつくっている概念がなければ拠り所が無い。歴史においてはこの(「ある(存在する)」ことの)拠り所が無いのだから思考不可能とする「論理実証主義」が生まれ、彼らは「存在は思考できず由って諸科学の論理の明晰化が哲学の役割」と考えた。
ところがドイツ実存哲学者マルティン・ハイデッガー(ハイデガー)( Martin Heidegger, 1889年9月26日 - 1976年5月26日)は「形而上学入門」でこのようなことを言っている。「哲学は決して諸科学と同列に置かれえない。哲学はむしろ諸科学に対してはその序列の前に置かれており、しかもそのことは単に「論理的」にとか諸科学の体系表のなかでという意味でではない」と語っている。簡単に言えば、諸科学と哲学はやっている作業が全然違うと彼は主張した。
ハイデッガーはそれまでの哲学が扱ってきた「存在」を「存在者」と「存在」に分け、さらに存在者の中でも思考することができ、他の存在者より優位的な存在である人間(存在者の中でも存在を問うことができる唯一の存在であり、このように語っている。「問うということを自らの可能性の一つとしてそなえた存在者なのである。存在者の中でも人間を現存在と決め、ここでこの存在者を呼ぶために現存在という術語を定めたい。」)を「現存在」と呼び他の存在者と切り分けて定義している。ハイデッガーによれば「存在者」を解明するのが諸科学(物理学、生物学、経済学等)の作業であり目的とし、「存在」を解明するのが哲学の作業であり目的であると言っている。
分かりやすく言えば、「2+3=5」と言った簡単な数式を見てほとんどの方が数式が導き出す答えを了解するはずだ。そこでこの数式を上述した定義に当てはめて見ると、「=」とは何かは数学では問わないが少なくとも「=」を挟んで左辺の数字「2」と「3」を「+」したものが右辺の数字「5」になることは共通了解された自明の事として受け入れているはずだ。このような既に共通了解された自明の事柄を積み上げ解明してゆくのが数学であり、この場合「2」や「3」や「5」の数字が「存在者」にあたる。これら共通了解された自明の前提とは何かを、先述した数式で言えば「=」とは何かを探求するのが哲学であるということになる。
前置きが長くなったが、繰り返しになるが哲学はこのような自明の事柄の中に隠された真理や共通了解をあからさまにしてゆくことが役割であるとということをハイデッガーは主著「存在と時間」中で主張している。ついでに申せば、ハイデッガーは現存在を、現存在自身(人間自身が)が現存在(人間)のことを良くわかっていないと言っている。
また「存在問題の存在論的優位」ということも付け加えておく、これは存在論は諸科学を基礎づけるものであり、それぞれの学問には数式、時間、空間、物質、貨幣、言語等の存在者を基礎に構築されている。なのでこうした存在者の意味はしっかりと明らかにしなくてはならないという意味である。更に「存在問題の存在者的優位」も付け加えておく。これは存在問題を考えるにあたってどの存在者に問えばよいか、どの存在者を分析すればよいかという問いで、その答えは「現存在」即ち人間であると言っている。
蛇足になるかもしれないが、上述した内容を踏まえた上で再度お伝えしたいと思ったことは、以前私は「韓鶴子パラドックス後編God Save The King」というタイトルでブログ村に投稿をしている。そこでは韓鶴子氏の主張が如何に酷いものかを「パラドックス」的手法を使って書いたことがあった。「パラドックス」とは「背理」であり、構文としては成立しないが、深い意味を伝えるために敢えて背理法を使った文章のことであったり、文脈の伝達であったり等をいう。例えば「急がば回れ」等がそれにあたる。
私が伝えたかったこととは、韓鶴子氏がアメリカ合衆国の司法の場で証言された内容を、私なりにまとめ、そこから読み取れる韓鶴子氏の主張が原理的にみて妥当性のない主張であり、韓鶴子氏自身が妥当だとする主張が原理的な作用を引き起こしてしまい、翻って自身の存在性の希薄さと危うさを決定づけてしまうような、主張すればするほど、映画バック・トゥ・ザ・フューチャーのように自身が消えてゆくように、まさに韓鶴子氏自身の主張自体がパラドックスに陥ってしまっていることを指摘した。
韓鶴子氏はお父様より自分の方が優れていて位相が高いということを主張するために「独生女」という言葉を悪用し定義を変えた。み言の深い意味がわからない食口達を中間管理職を使って騙してきたことは明白だが、その行為自体が招く原理的作用までは良くわからなかったようで現在は自滅的な状態になっている。
お父様は「真の愛」の「先有」に関して、2007年4月10日韓国ソウル マリオットホテルで開催された女性連合創設15周年記念式典でお父様が約一時間にわたり、原稿なしで語られている。
この大会で語られた中で最も重要な内容は「先有」条件の話であるが、お父様は家族関係を例にあげてはなされていた。その内容を簡潔に私なりにまとめれば、父母は自己を考える前に子女を考える。自己の主張を認める前に、対象である相手、この場合では予め先に子女を考えていると言われ、子女の存在があって父母の存在があると語られた。これを哲学的な表現を使えば、対象の存在が確定することによって主体が確定することであるといえる。
上述した真の愛の「先有」をお父様と韓鶴子氏との関係に当てはめて見ると、お父様はご自身を一切顧みること無く、誰よりも韓鶴子氏を愛されたという事実は自明のことであり、私たちの中には確信的に共通了解がある。真の愛の「先有」から湧き出てくる神様の理想は、韓鶴子氏が天の理想的存在(理想相対)の位置が確定してこそ夫婦、さらには発展して父母としての存在が確定することを通して成就される。ところが、韓鶴子氏あなたが以下にまとめた①~⑥を主張したということは、あなたはお父様の相対の位置からあなた自身が選んで外れたことを意味し、このことを通して分かることは、お父様を相対化して見てしまうことによってでしか以下のような観点は生じることはない。ということは、韓鶴子氏あなたは別の主体と繋がり、お父様を天的位置から引き下げてしまったという事実が以下の6項目の主張に表れていると見るべきである。なので、原理の主管性と自律性から見て韓鶴子氏あなたがお父様を否定すればするほどあなたの存在は希薄になりやがて消滅すると私は見ている。
また、普通まともな理論であれば、例えば①の「お父様は原罪を持って生れた」と主張しようとすれば先ず「原罪」とは何かを明らかにしなければならないのでは?その上でお父様の有原罪の主張を論拠を示しながら論証しなくてはならないのではないのか。又、イエス・キリストをメシアであることはお認めになっているようだが(イエス・キリストはメシアであり、お父様はメシアではないとするならば、イエス・キリストとお父様の違いは何か)、そもそも「イエス・キリスト=メシア」だとお認めになるならば、未だ論争に決着がついていない「イエス・キリスト」「メシア」「=」とは何かを先ずしっかり説明した上で合意をもって再定義し、全てを再構築しなければならないのでは。
2019年3月25日米国のペンシルバニア裁判所で行われた訴訟における韓鶴子氏法廷証言のポイント
ポイント①お父様は原罪を持って生れた
ポイント②お父様は私に会って真の父母になれた
ポイント③私(韓鶴子氏)は無原罪で生まれた
ポイント④お父様原罪有りで生まれ、私(韓鶴子氏)に出会い「独り子」へ変わる(お父様罪在り→無しへ、お父様ハイブリット論?)
ポイント⑤私は独自に真理を解明し、神様の摂理全てを知っていた
ポイント⑥神様の真理を解明における二重摂理論
今回私が主張した哲学的姿勢から申せば、クリスチャンであるならば自明のこととしている共通了解の中に隠されている存在を先ず明らかにするべきである。お父様のみ言を理解すれば原罪とは何かが分かるはずだ。お父様は神様の解放と釈放をなして差し上げたので、韓鶴子氏あなたの本来なすべき仕事はキリスト教を代表とする未だ解けない神学その他の諸問題を、お父様に代わって堕落人間の代表的立場で堕落した人類に分かりやすく理論と実体で伝え屈服させることによって、お父様の偉業に加担し、お父様の解放と釈放をなして差し上げることを通してあなたの位相は上がることができたと私は強く思ったのでそれを上述したブログで伝えたかった。
キリスト教歴史哲学では、ダニエル書2章、7章において預言された歴史的経緯を通して、神様が教会内(プロテスタントでは今を「教会時代」と呼んでいる)だけではなく、教会外にも関与され、地上への歴史全てを支配しコントロールされているという確信がある。ルカによる福音書21章24節、ロマ書11章25節の記述から解釈されるのは「異邦人の時」がやがて終わり「メシア的王国」の到来が来るというもである。イスラエルやクリスチャン達が持っている、神様は我々を絶対的に導くという確信に対する理解が無ければ、今世界で起こっている現象を理解できなと私は考えている。
2023年10月7日に始まったイスラエル・ハマス間の戦争は何故勃発したのか、何故ハマスはイスラエルを急襲したのだろうか、この根本原因を私たちは人間には心と体があるように、目には見えないが存在する心のような世界と、目に見える体のような世界が二元論的に繋がっていない分離した世界観ではなく、心と体が二性性相からなる主体と対象の関係として一元的なまるで重ね合わさっているような説明を用いながら解明しなければならない。そのためには聖書的な世界観、歴史観を軸に、原理的な構造の説明と理解、実体の背景的説明が必ず必要であると考えている。
イスラエルは第三神殿を既に準備し終わっている。それは神殿の様式は全て聖書の記述を基に完全な再現をし、神殿をバラバラの部品状態で保管し、あとは組建てるだけでよい状態であると聞いている。約1週間もあれば聖書に記述された神殿を建てることができると言われている。問題は立てる場所である。有力視されているのが「岩のドーム」と呼ばれるイスラム教の第3聖地である。アメリカ合衆国テキサスから輸入された完全な赤牛を屠りその血を土地に注ぎ清め聖別すれば何時でもこの場所に着工できる状態だ。
この場所はイスラム教ばかりではなく、イスラエルの歴史においては非常に重要な場所である。アブラハムがイサクを捧げた場所と言われ、第二神殿跡地でもある。
「ハイドパーク覚書」の一文
When a ”bomb” is finally available, It might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese, who should be warned that this bombardment will be repeated until they surrender.
爆弾が最終的に使用可能になった時には、熟慮の後にだが、多分日本人に対して使用していいだろう。なお、日本人には、この爆撃は降伏するまで繰り返し行われる旨、警告しなければならない
今巷では映画「オッペンハイマー」が話題になっているが、上述したものは「ハイドパーク覚書」の一部である。この文章で注目したいのは核使用し殲滅すべきは"Japan"ではなく"Japanese"と書いてある部分である。
日本人は全く気付いてはいないが、この状態は今も続いており私たちは彼らの支配下に置かれた被支配民であり、支配維持のためならばあらゆる選択肢の行使に対して彼らは何のためらいもないだろう。 「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」の著者イスラエルの歴史学者であり、ダボス会議の構成メンバーでもあるユヴァル・ノア・ハラリ氏という人物がいるが(彼は自身がLGBTであることをカミングアウトしている)、彼は著書の中で人類(ホモ・サピエンス)史は段階的に革命を通して、宇宙の成り立ち→ホモ・サピエンスによる人類統一→段階的革命を経て→超ホモ・サピエンス時代を迎えると予言している。超ホモ・サピエンス時代とは私の印象(私はこの本を全て読んではいないし買って読む気もしないが、大変有名なベストセラー本のため、要約や解説しているサイトが多数あるのでそれを読んだりした上での印象)としては人類が向かっていると彼が思い描いている世界とは科学的統一世界と思われる。未来は人間も万物も科学技術を土台にした新しいホモ・サピエンスの登場を予測していおり、その段階で旧ホモ・サピエンスは消滅してしまうという新たな物質を中心とする世界に移行させる革命史観であるという印象だ。
また神様無き哲学は、相対主義からポストモダンを経てオブジェクト指向存在論等が出てきている。それまでの人間を主体に置いてきた哲学を否定し、客体(オブジェクト)を中心に置くというような何でもありの主客転倒の、お父様の原理から見て完全な非原理哲学である。お父様の「先有」は歴史的な課題である「主体」「客体」問題を解決できる唯一のものであり、お父様が唯一発見し主張したものである。それをひっくり返そうとする陳腐で幼稚で狂った韓鶴子氏由来の「独生女論」(私はお父様のみ言に出てくる本来的な意味での「独生女」を否定しているのでは全くないので、独生女の前には「~由来」を必ず入れている)であることは伝えておきたい。また、上述したもの(「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」であり、間違っても韓鶴子氏由来の「独生女論」ではない)は私のあくまでも印象ではあるが、とんでも史観とバカにせず彼らは本気であるという視点で世の中を見れば腑に落ちる点を多数見つけることができる。
再三申し上げているように、韓鶴子氏の歴史的な裏切り行為は、ヨハネの黙示録17章に登場する「大淫婦バビロン」である淫婦とこの女を乗せている七つの頭と十本の角のある獣は相同(根は同じという意味)であり行為が相関している。聖書の記述を見ると当初は「獣」と「淫婦」の関係には親和性があり、ヨハネの黙示録17章7節には「この女を乗せている、七つの頭と十本の角を持つ獣」とあり、現れた御使いがその意味を紐解いている。
御使いはこのように語っている。ヨハネの黙示録17章12節では「あなたが見た十本の角は十人の王たちです。彼らはまだ王権を受けてませんが、獣とともに、一時だけ王としての権威を受けます」と語り、またヨハネの黙示録17章13節では「これら王たちは一つ思いとなり、自分たちの力と権威をその獣に委ねます。」と語っている。ここで私が述べている「十本の角」と「獣」と「淫婦」との親和性とは何かを説明しますと、先ず「淫婦」とは韓鶴子氏を表し、「十本の角」と「獣」とはダボス会議では「ステークホルダー」と呼ばれ、トランプ前大統領は「ディープステート」と呼び、ウクライナ戦争を仕掛けた「ネオコン」と「軍産複合体」であり、ワ○○ン騒動では国際医療機関と「ビッグファーマー」であり、その下部組織である各国家の行政機関となり、その背後には「ブラックロック」「バンガード」「ステート・ストリート」等の金融機関が存在し、更にマスメディアがその繋がりと、行為を全て覆い隠している。「十本の角」と「獣」はまさにそれらの合意組織と私は考えていおり、その根拠を聖書とお父様のみ言に置いている。更に聖書ではこれらの利害グループ、利害合意組織は国家形態をとらない超国家グループであることが分かる。(先述したヨハネの黙示録17章12節)がフレキシブルにまるで脳のニューロンのように離合集散していて、その実態は雲の下にいる私達にはマスメディアが巧妙に隠蔽してるために全く見えない。「淫婦」と「十本の角」「獣」は、内心の情や根にある本質的な構造等が相同であり、ごくわずかな者達の自己中心的な個人欲の実現の最大化を目的としたている。外形的な面では一見巧妙に妥当性があるかのように見えても中身は幼稚なレトリックを使い隠蔽し嘘をつく所が似ていて親和性がある。
ところがヨハネの黙示録17章16節には「あなたが見た十本の角と獣は、やがて淫婦を憎み、はぎ取って裸にし、その肉をくらって火で焼き尽くすことになります。」と書かれており、「十本の角」と「獣」とによって最後の結末には親和的な関係から一転して「淫婦」は滅ぼされてしまうことになる。しかし、ヨハネの黙示録17章17節には「それは、神のことばが成る時まで、神はみこころが実現するように王たちの心を動かし、彼らが一つ思いとなって、自分たちの支配権を獣に委ねるようにされたからです。」というまるで神様ご自身がなしたかのような記述になっていることに深い祈りをした。一体誰によって上述した山上単独説が企図されたのだろうか、トランプ前大統領の発言の中にある「彼ら」とは一体誰なのか。これらは全てお父様が我々人類に残してくださった尊い宿題であると心から感じている。
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