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お父様の御聖誕には血統転換のプロセスは無い

「救援摂理史の原理観」1996年4月16日ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC
 再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するためにこられます。すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するためにこられます。彼は既にイエスの時まで神側が勝利した根本摂理の土台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に真っすぐに立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。

 マリアの信仰の勝利とイエス・キリストを守れなかった母としてのマリア

冒頭引用した「救援摂理史の原理観」は、1996年4月16日ワシントン・タイムスが主催し、ワシントンDCで開催された財団創立大会で語られた末文の一部を抜粋ものである。当時このみ言は「年の数だけ読みなさい」と語られた重要なみ言である。

文鮮明真のお父様(以下、愛と尊敬を込めて「お父様」と表記)は、「救援摂理史の原理観」を語り終えた直後に、「今日はマリアにとって最高の日だった」と語られたと聞いている。そのことの意味は、本来イエス・キリストを命がけで守らなければならなかったのが、ザカリア家庭とヨセフとマリアであったが、結果として守ることが出来ずイエス・キリストは十字架に掛けられてしまった。本来イエス・キリストを母であるマリアは懐胎時に起きた奇跡の真の意味を理解し、イエス・キリストを私的な息子という次元ではなく、神様の息子として侍り守らなければならなかったはずだがそれが出来なかった恨をお父様は知ってマリアの心を解いてあげた。そのことがこの講演後に語られたこの一言にあらわれていると私は理解している。元大統領経験者達を前にして原理的聖書史観をひも解きながら、語られた内容が嘘やいい加減な話でその場を取り繕うような話であるはずが無い。

更にこのみ言を精察すれば、イエス・キリストの血統が聖書に記されているユダの血統ではなく、レビの血統であることを示唆している箇所まである。

「救援摂理史の原理観」の核心は「血統転換」である。イエス・キリスト当時今我々が手にしているような聖書は存在していない。現在の聖書でいえば旧約聖書にあたるのがトーラーtorah(モーセ五書)でありキリストの降臨が預言されている。お父様は「救援摂理史の原理観」の中で、原理による聖書史観の核心は血統転換であり、イエス・キリストの降臨こそが聖書の一義的目的だったと語られている。では血統転換とは何なのか、お父様は創世記3章で人類始祖が犯した罪が何だったのかを解き明かし解明された人類の根源的罪が血統的罪であった。

血統的罪とは、人間は神様の血統ではなく、神様を結果的に排撃し、神様と一体となれず、天使ルシファーを神様以上に尊び選択し、それに従い愛の関係まで結んでしまいサタンとの愛の関係を結び血統を繁殖させたこと。更にその経路を見れば、人類女性の始祖エバは、その罪を人類男性始祖アダムにも繁殖させてしまったので、お父様はこの人類女性の始祖エバが罪の入り口となってしまったことによって創世記にはエバを象徴的に「善悪知るの木(新改訳2017年度版では『善悪の知識の木』)」として記述されるようになったと語った。このような偽りの血統から神様の本然の血統に生み変える(お父様は「重生」と呼んでいる)ために神様の愛と生命の種を持って降臨されるのがイエス・キリストであるため、イエス・キリストを生み出すために絶対的に必要な神様の救援摂理が血統転換である。

では天使長ルシファーの偽りの愛、未熟で未完成な偽りの愛による選択と行為が、堕落の偽りの血統を生じさせてしまった。神様は堕落直後からこの偽りの血統から神様の真の愛による本然の血統へ生み変えるための救援歴史を導かれ、それらが書き記されているのが旧約聖書であると私は理解している。ところが、神様の真の愛の種を着地できる胎が準備され、イエス・キリストは神様の真の愛が受肉された実体として御聖誕されたが、しかし、ザカリヤとエリザベツもヨセフもマリアも守ることが出来ず、イエス・キリストは十字架に掛けられ昇天され、メシアとしての使命を完結することが出来ずその使命は再臨主へと移った。

「救援摂理史の原理観」1996年4月16日ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC
 サタンの偽りの愛の種がエバの胎中にまかれて悪の生命が生まれたので、神様は母の胎中まで入っていって分別しておかなくては、天の息子が胎中で誕生することができなのです。ですから、ヤコブの勝利によっても、まだ分別されていない妊娠から四十代までの期間もサタン分立がなさなければなりません。結果的にこの責任を任された偉大な母がタマルです。

「救援摂理史の原理観」1996年4月16日ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC
 マリヤのおなかが膨らんできて、周囲の人たちも妊娠したことが分かるようになりました。その時、ヨセフが自分は知らないことだと言ったならば、また、どうなったでしょうか。ヨセフは神様の啓示を信じ、妊娠が自身の責任であると擁護した義人でした。これによってマリヤは婚約期に妊娠したという嘲笑は浴びたとしても、石を受けて死ぬことはなかったのです。

 マリヤを愛したヨセフは、初めはこのようにマリヤを守ってあげました。しかし、ヨセフの心の底には苦悶(くもん)がたくさんありました。特に、生まれたイエス様を見詰めるヨセフは、その父親に対する疑問と関連し、心の中の苦痛を頻繁に経験するようになりました。イエス様が大きくなると同時に、ヨセフとの関係が心情的に距離が生まれるようになり、このことによって、家庭に頻繁に紛争が起こったことは間違いのない事実です。こうしてイエス様は私生児の立場で、ザカリヤ家庭の保護も受けられず、また、ヨセフとも難しい条件で、心情的に途方もなく寂しい立場で育ちました。

「救援摂理史の原理観」1996年4月16日ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC
 次に考えるべき点は、ヨセフとマリヤの関係がイエス様に及ぼした影響です。マリヤはエバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係でなければなりませんでした。しかし、摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありえません。ですから、彼らはイエス様が誕生する時まではもちろん、その後にも性関係を結んではならないのが神様の願いでした。ヨセフはマリヤに対して、イエス誕生の後にもずっと愛の心をもちました。マリヤはヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。

 しかし、現実はそれを簡単には許しませんでした。本心ではだめだと思いながら、マリヤはヨセフと性的関係を結ぶようになって子女をもつことにより、エバの失敗を反復した結果となってしまいました。サタンはこれを条件として彼らに侵犯するようになりました。イエス一人を残して、すべてサタンの主管下に入っていった結果となったのです。イエスを守るべき父親も、母親も、アベル側の兄弟(洗礼ヨハネとその兄弟)も、カイン側の兄弟(ヨセフの子女)もすべてサタン側になってしまいました。

 人がサタンの侵犯を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまいます。神様に対する確信と感謝を失うようになります。すべてのものを人間的に考えるようになります。これにより、マリヤまでイエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えて真の父母になれず、十字架の道を行かざるをえなかった直接的な原因になったのです。

タマルの胎中聖別とマリアの信仰

イエス・キリストは神様の愛と生命の種を持って神様の血統を偽りの愛で堕落したサタンの偽りの血統である人類に接ぎ木するために降臨されるという、ユダヤ教やキリスト教の聖書解釈にもない神学は、聖書歴史の観点を左右する内容であり、現在の私個人から私たちを取り囲む社会状況や国際情勢に至るまで影響を与えている内容が「タマルの胎中聖別」であると言っても決して言い過ぎではない。

胎中を聖別するということがどいうことなのか、創世記38章に記されている具体的行為がタマルの胎中を聖別することどの様な繋がりがあるのか、目に見える行為が目には見えない生命を宿すこととどの様な関係があるのかに関して今回はふれないが、事実として捉えていただきたい。お父様は明確に説明されている。そうでなければこのような内容が何故聖書に記されているのかの意味は理解できない。

「救援摂理史の原理観」1996年4月16日ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC
 タマルは選民の血統を続けなければという一念から、売春婦に変装して、舅(しゅうと)であるユダを迎え、双子の赤ん坊を身ごもりました。赤ん坊たちが生まれる時、先に手を突き出して出ようとした長子の赤ん坊が再び入り、弟になるべき次子の赤ん坊が兄になって先に生まれたのですが、彼がペレツです。タマルの胎中で長子と次子が争って、分立される胎中復帰がなされたのです。

このような条件の上に、選民の血族を見て、二千年後にローマ帝国の国家基準に対峙(たいじ)するイスラエルの国家的土台の上に、メシヤを身ごもることができたのです。神様の息子の種が準備された母親の胎中に、サタンの讒訴(ざんそ)なく根づかせることができるようになった国家的勝利の土台が造成されたのです。

創世記38章6節~16節【新改訳聖書2017】

6、ユダはその長子(ちょうし)エルに妻を迎えた。名前はタマルといった。

7、しかし、ユダの長子エルは主の目に悪しき者であったので、主は彼を殺された。

8、ユダはオナンに言った。「兄嫁のところに入って、義弟としての務めを果たしなさい。そして、おまえの兄のために子孫を残すようにしなさい。」

9、しかしオナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた。

10、彼のしたことは主の目に悪しきことであったので、主は彼も殺された。

11、ユダは嫁のタマルに、「わが子シェラが成人するまで、なたの父の家えでやもめのまま暮らしなさい。」と言った。シェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである。タマルは父の家に行き、そこで暮らした。

12、かなり日がたって、ユダの妻、すなわちシュアの娘が死んだ。その喪が明けたとき、ユダは、羊の毛を刈る者たちのところ、ティムナに上って行った。友人のアドラム人のヒラも一緒であった。

13、そのときタマルに、「ご覧なさい。あなたのしゅうとが羊の群れの毛を刈るために、ティナムに上って来ます」という知らせがあった。

14、それでタマルは、やもめの服を脱ぎ、ベールをかぶり、着替えをして、ティムナへの道にあるエナイムの入り口に座った。シェラが成人したのに、自分がその妻にされないことが分かったからである。

15、ユダは彼女を見て、彼女が顔をおおっていたので遊女だと思い、

16、道端の彼女のところに行き、「さあ、あなたのところに入らせてほしい」と言った。彼は、その女が嫁だとは知らなかったのである。彼女は「私のところにお入りになれば、何を私に下さいますか」と言った。

冒頭でもふれたが、この日は(「救援摂理史の原理観」が語られた1996年4月16日)イエス・キリストの実母マリアの解放とも言える一日であり、人類歴史上重要な日として後世に伝えられる日である。マリアは聖母として崇め奉られているが、お父様のみ言によればマリアは創世記38章に記されているタマルが立てた信仰を、国家的基準で立てることを通して神様の愛と生命の種がマリアの胎中に入り、神様の御子イエス・キリストを宿らせることができたと語られた。

そして母マリアは、イエス・キリスト御聖誕後も守り育成し、メシヤとしての使命を果たすための協助を命がけで果さなければならなかったが、結果的にその使命を果たすことが出来ず、聖書歴史4000年をかけて準備され降臨されたイエス・キリストが十字架に掛けられてしまった。そのことの深い事情をお父様は「イエス様が願われる結婚を助けられず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えて真の父母になれず、十字架の道を行かざるをえなかった直接的な原因になったのです。」と語られた。

このような複雑な悲哀に満ちた人類歴史の中で通過した愛の関係を解消させた方、お父様がこの内容をユダヤ教、カトリック教会、正教、プロテスタントが集まるワシントンDCで語ることを通してマリアは解放されたということは、カトリック教会を中心に今日まであまりにも高く引き上げられたマリアであったが、実は神様の息子を守ることができず、神様の願いを果たすことができなかった母マリアの実に悲惨で哀しい全てを明らかにし、神様の御前にとりなすことを通して再臨主であるお父様はマリアを解放されたと私は理解している。

「救援摂理史の原理観」の信憑性(しんぴょうせい)

ご存じの通りアメリカは17世紀イングランドの改革派(清教徒)達によって建国された国であり、ワシントンDCには北米最大のカトリック教会「無原罪の御宿りの聖母教会」がありる。当然アメリカの首都ワシントンDCには多くのカトリック教徒が教育、経済、司法、行政の中枢を担う方々の中にも多くおられるはずだ。ワシントン・タイムス財団創立大会参席者の中のどれくらいの方がカトリック教徒であったかは不明だが、居たと考えるのが自然だろうと思う。

お父様のこの様な環境の中で語られたみ言が果たして嘘や欺瞞に満ちた内容なのだろうか、いやそうであるはずがないと私は確信している。ちょっと想像力を働かせたなら、この内容を語ることが命懸けであったことは想像に難しくないはずだ。さらに深堀して考えてみれば、ワシントンDCにおいて、保守的メディアの代表として多くの政治家や政治学者、ジャーナリストが評価しているワシントン・タイムズ財団創立大会に、何故このような聖書の話を敢えてしたのだろうか。しかもキリスト教メインストリーム各宗派の教義の中にもない、伝統的な権威付けされたキリスト教神学にも無い、むしろそれらから見ると全くの異端的解釈を何故この場で敢えて発表しなければならないのかの合理性は見いだせない。

売名行為だと言う方もおられるが、それではその方にお聞きしたいのは、何故売名をしようとする人が聖書を用いて異端的解釈を主張し、キリスト教国家であり、世界最大の経済・軍事力を持った国家のど真ん中のそれも多くのキリスト教宗派が集まる首都で、このような話をすれば自らの評価は間違いなく下がるだろうということが、予め分かるような行為に何故及んだのか合理的説明をしてほしい。

1988年マーティン・スコセッシ監督、ニコス・カザンザキス原作の「最後の誘惑」というアメリカ映画があったが、この作品の中で描かれているイエス・キリストはマグダラのマリアとの愛で悩み、弟子であるペテロにも諫(いさ)められ、最後はマグダラのマリアと結婚をし、普通の人として亡くなってゆくストーリーだったと記憶している。この映画は世界中でキリスト教団体から抗議を受け、ヨーロッパ各地で映画館が焼き討ちに会い上映が禁止された、数あるイエス・キリストを描いた映画の中でもいわくつきのものだった。

私はお父様が講演後無事ワシントンDCを離れられ、御聖和されるまで精力的に世界を駆け巡ることができたことと、ワシントンタイムスが焼き討ちにあうこともなく今もメディア活動を続けていること自体奇跡のように思える。

 再臨のキリスト降臨には血統転換のプロセスは無い

「救援摂理史の原理観」1996年4月16日ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC
 再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するためにこられます。すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するためにこられます。彼は既にイエスの時まで神側が勝利した根本摂理の土台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に真っすぐに立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。

その上で上述したみ言は「救援摂理史の原理観」の末文にあるみ言の引用であるが、文中下線の「彼は」とあるがこれはお父様ご自身であり、これを読めばお父様の御聖誕には「血統転換」のプロセスは必要なく、メシア降臨のための血統転換のプロセスはマリアで終了したということが理解できる。初臨メシアと再臨のメシアでは使命は同じだが降臨までの歴史的プロセスには違いがある。

繰り返すがお父様は血統転換の過程を経ず、イエス・キリスト降臨まで神側が勝利した基台の上に再降臨されます。韓鶴子氏が認識している「原罪」が、血統的罪であるとお考えならば、取り返しのつかない大きな間違いをしております。

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