文鮮明先生御言選集 - 神様の心情の解放、釈放のための孝子、忠臣になろう2004年12月13日
真の愛の本体であられる神様が、なぜ人間を創造されたのかというと、独りでいれば刺激がないためです。喜びというものは、相対関係によってわき出るものです。独りでは喜びの刺激を得ることができません。神様も愛の対象が必要なのです。独りでは愛することができないのです。このために人間は、神様の真の愛のパートナーである子女として造られました。
このように、神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をすべて投入して創造されました。父と息子が出会うことができる最高の場所は、愛が交叉するその中心、生命が交叉するその中心、理想が交叉するその中心です。神様は、人間を全知全能であられる御自身と同等の立場であり、同位の立場に立つようにお造りになりました。それで、人間の本心は、最高のものを希望するのです。
創造理想完成は、どこから始まるのでしょうか。それは、神様ではなく、正に人間から始まるのです。神様の理想は神人一体なので、人間の完成がない限り、神様の完成もまたあり得ないのです。だとすれば、神様は、人間始祖のアダムとエバが神様に似た無限の価値的存在になることを、どれほど期待しお待ちになったでしょうか。
神様が救いのために先ず始められたのが父性を取り戻すことだった
イザヤ・ベンダサン(山本七平)は、古代イスラエル宗教やユダヤ教の神は父性の神であり、血縁的父子の関係というよりは、「主人」と「僕」の関係に近いのではないかと思うと述べ「神・人の関係」は血縁なき「養父」「養子」の関係であり、人間は神様の養子の立場であると言っている。では養子の立場とはどのような立場かと言えば、神様と人の関係は契約関係であり、契約が破棄されれば躊躇なく神様は破棄した者を聖絶される。契約が破棄される条件が記述された最初のものが十戒である。十戒の第一戒は「汝、われのほか、何ものをも神とすべからず」であり、人間が他神を神として拝することを戒めたものである。イザヤ・ベンダサンのこのような神様「養父」説は、旧約聖書の神様の父性は、苛烈な恐ろしい容赦のない悪(偶像崇拝、偶像礼拝)に対する切断、分立の躊躇のない聖絶の姿の中に現れていると言っている。
ではキリスト教においてはどうかと言えば、イエス・キリストは神様を「アバ、父」(マルコ14:36,ローマ人8:15、ガラテヤ4:6)と呼び、神様の息子であることを明確に主張された。プロテスタントにおいては、へブル書を引用して、クリスチャンとして神の子となったなら父からの訓練を受ける。それが神様の父性的教育と言っている。イエス・キリスト(御子)はまさしく神様の子であり、上述した旧約から引き継がれた一貫性の観点で言えば、神様の血縁的父子関係ということができる。ヨハネの手紙第一では「神の種がその人のうちにとどまっているからです。」と言っていることからもわかる。
ヨハネの手紙第一3章9節【新改訳聖書2017】
9、神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。
マルコの福音書14章36節【新改訳聖書2017】
9、そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をあたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
ローマ人への手紙8章15節【新改訳聖書2017】
15、あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる。奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
作家遠藤周作は評論「父の宗教・母の宗教ーマリア観音」においで、宗教は「父の宗教」と「母の宗教」の二つがあり、隠れ切支丹が転んだ時(棄教した時)「マリア観音」を必要とした意味を探求し、彼らがゆるしを求めたものは父ではなく母(マリア観音)だったと結論付けている。その理由として遠藤周作氏は、転んだ時彼らが恐れたのは父として崇めた宣教師だったと、彼らの怒りを恐れ母なるマリアに救いを求めた結果として、マリア信仰とマリア観音が日本には多く存在するようになったと言っている。更にキリスト教だけではなく、日本の仏教においても父性ではなく母性を求める信仰があると語っている。これが彼の言う「母の宗教」という概念の背景となっている事象ではないだろうかと語っている。
イエス・キリストもお父様も父なる神様に垂直的に真直ぐに向かい、最も困難な時を超えて行かれました。垂直に真直ぐに向かう方向は母ではなく父です。父なる神様です。
お父様のみ言によれば、人類始祖アダムとエバが堕落した直後は、神様と人間の関係は神様から見て「僕の僕」の位置まで堕落したと語られている。これはお父様のみ言にある「縦横の八段階」(お父様が1989年8月31日アメリカ合衆国アラスカ州コディアックで「八定式(はちていしき)」の中で語られたみ言の中に出てくる概念で、堕落した人間が神様に復帰⦅堕落する以前の立場に帰ってゆく事⦆する各段階を定義された内容である)の中で語られた堕落直後の人間の位格を「僕の僕」と定義し、「僕」、「養子」、「庶子」の各段階を経てはじめて神様の「実子」に成れると語られた。では堕落直後の人間の位格「僕の僕」とはどういうことかと言えば、本来天使は神様に仕える神の僕の立場として創造され、人類始祖アダムとエバは聖書にも書かれているように神様の創造において最後に造られた存在だった。堕落せずアダムとエバはその後一定の「成長期間」を経ていれば、神様の理想を完成した「完成実体」になれるはずだった。その段階で天使は人間にも使える立場になっていたとお父様は語られている。
しかし先ほど来申し上げているように、天使ルシファーに人類の女性の始祖であるエバが誘惑され堕落し、更に人類の男性の始祖アダムもエバから受けた誘惑に従ってしまい、アダムもエバを通して堕落してしまうという顛末が聖書には記されているが、それがなんと人類史の始まりだった。即ち僕である天使の僕のような立場にまで神様の理想から見れば落ちてしまったので、お父様はこのような人間の位格を「僕の僕」と称された。創世記3章~4章に対してのこの指摘はとても重要な内容であり、イザヤ・ベンダサンの主張は、彼が聖書から感じ取った感覚は、詳細ではないにしろ僭越(せんえつ)ではあるが正しいと思っている。
神様の父性の結実、父子一身が第二のアダム、キリストに現れる
人類始祖アダムとエバの堕落によって失った神様と人間の関係を取り戻すために、先ずはじめになされたのが「父性」を取り戻すことにあったということが、旧約聖書を通して理解することができる。神様の属性には「陽性」と「陰性」があり、神様の陽性の実体が男性であり、陰性の実体が女性である。神様の陽性的側面の男性であり「父性」の実体として来られる方がイエス・キリストであり、神様のもう一方の属性である陰性的側面の女性、言葉を変えれば「母性」の実体は、神様の種(たね)を持って、後(のち)のアダム、第二のアダムとして降臨されるイエス・キリストによって探し出された女性が、個人として成長し完成したイエス・キリストと結婚し、イエス・キリストによって罪が取り除かれ成長し、子女を産み子女が完成して初めて母になり母性が現れるようになる。
人間が堕落以前の位置と状態になるためには、堕落したのは人間なので、人間が神様の前に贖罪と罪の清算(詳細は割愛)をしてこそ神様の前に帰れるようになる。良心基準を失い、獣にも劣る姿になってしまったので、その場合先ず始めに神様は恐ろしく厳しい「父性」の神様として現れ、その神様との関係の回復が先ずなされて来たということが、聖書に記されている。そのような観点から見れば、旧約聖書に記述された父性を露にされた神様の姿は、アダムの家庭が堕落することによって失ってしまった神様と人間の絶対的な関係を取り戻すためのものであり、人間に父性を結実させるためのものだった。お父様のみ言によれば「宿命的父子の関係」を取り戻すための内容が文字にも行間にも書き込まれていると見るべきで、神様とキリストによって結ばれる神様との父子の関係は、肉の父子の関係を形成し、それを通しての永遠なる霊肉の父子関係が形成されることを願った神様が行った摂理である。
繰り返しになるが、旧約聖書創世記に記された「父が子を生む」形態は、人類始祖の堕落によって失ってしまった父子関係を取り戻すための過程で現れる歴史の本質から出現した形態であり、お父様のみ言の核心の歴史観では、※歴史の目的は神様の種をもって最初に生まれるのは男であると語られている。更にお父様によれば、これに対して天使ルシファーを神様との絶対的父子の関係が築かれる前に、恰も招き入れる立場の如くに(相対基準を結ぶ)「天使の誘惑」に負けて、神様から「しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)とまで語られたみ言を受けていたにもかかわらず、天使の言葉を優先し関係を結んでしまったためエバは、「善悪の知識の木」(創世記2:16)に象徴される立場になり、罪の戸口になってしまったことが、聖書に比喩的に記述されているという趣旨のみ言を語られている。
※「救援摂理史の原理観」1996年4月16日ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC
メシヤはサタンの主管下にいる堕落した血統をもった人たちの生命を否定し、新しい生命の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人であられます。根は神様に置きましたが、後(のち)のアダムとして来て、アダムによって引き起こされたものを清算しなければならないメシヤです。神様が、能力だけで役事(やくじ)する超人を、メシヤとして送ることのできない事情がここにあるのです。
天聖経【初版】宇宙の根本 第二章人間創造と愛の理想の関係 3、神人一体と愛の理想の完成 ③真の血統の根は神様P1830
アダムとエバの結婚式は、神様の結婚式です。アダムは誰ですか。神様の長男です。平面の中の平面で横的です。神様は縦的です。その一家で横的に発展することができるのは、長男から始まります。神様とアダムは、愛を中心として父子一身です。それでは、愛はどこで一つになるのでしょうか。縦的なアダムとエバの結婚式で一つになります。成熟してお互いに思い慕うのは、縦的なものを取り戻すためなのです。(二六三ー一二四)
天聖経【初版】宇宙の根本 第二章人間創造と愛の理想の関係 3、神人一体と愛の理想の完成 ③真の血統の根は神様P1830
エバは、未来における神様の愛の婦人です。神様自体は縦的ですが、横的な相対がいません。縦横を結んで、もたなくては生産できないのです。神様は縦的にいらっしゃいます。縦は垂直で、垂直は一つしかありません。垂直の世界は生産できません。生産できる環境は、横的な基盤です。ここには四方、三六〇度があるので、面積があって生産圏が展開されるのです。神様は、一人でいてはいけないのです。天国を成す民族を生産するためにアダムとエバという体を造られたのです。(二〇三ー二九六)
父性排撃が招く実証的悲惨世界
旧約聖書創世記の筆者はモーセと言われている。原理の入門書である原理講論では、「第二節ノアの家庭を中心とする復帰摂理」のなかで、人類始祖アダム家庭で失った「信仰基台」とアダムの息子であるカインとアベルを通して、アダムとアダムに屈服できなかった天使ルシファーとの関係をやり直す(蕩減復帰、詳細は割愛)ことを通して、第二のアダムとして来られるメシアを迎えることができる基台(霊的、実体的基盤、環境的土台)が造られると記されており、ノアの家庭ではそのアベルの立場がノアの息子(次子)ハムであったと原理講論では主張している。
創世記9章18節【新改訳聖書2017】
18、箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤフェテであった。ハムはカナンの父である。
創世記9章20節~27節【新改訳聖書2017】
20、さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた。
21、彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。
22、カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
23、それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔を背けて、父の裸は見なかった。
24、ノアは酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知った。
25、「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」
26、また言った。「ほむべきかな、セムの神、主。カナンは彼らのしもべとなるように。
27、神がヤフェテを広げ、彼がセムの天幕に住むようになれ。カナンは彼らのしもべとなるように。」
父を敬ない民族はどのような民族になるのか。聖書に記されているハムのこの小さな行為が、将来どのような民族に影響を与えてゆくのか。父を敬わない人の人生が、どのような民族をつくってゆくのか。信仰(人間の目には見えない内心の意思、意欲、判断、決定の主体をどこに置くか、何に置くか等)の誤りと、起こった事実の関係を実証的に検証をしなくてはならない。また検証の意義は、お父様が語られた「血統」とは何かを知る上でも重要だと私は考えている。
お父様のみ言によれば、ノアに聖霊が働き(この表現はお父様のみ言にキリスト教的解釈と表現を私が勝手に加えたものなので、あくまでも参考程度に)「カナン(※カナンはハムの四男)はのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」とノアが語ったのは、ハムが神様の人類救援摂理の中ではたさなければならなかった内容を出来なかった結果であると語られ、その内容は、父ノアがたとえ裸で寝ていたとしても、それを見て恥ずかしいとは思ってはいけなかった。それだけではなく、更によくない気持ちを抱き、彼の兄弟であるセムとヤペテに恥ずかしい気持ちに陥るように扇動してしまったことが、ノアに聖霊が働きこのように言わしめたと語られた。
※ハムの四男カナンの後裔達は、やがてイスラエルが約束の地に入って行くときに、その地の先住民として居た。創世記10章15節~18摂には「カナンがうんだのはシドン、ヒッタイト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワデ人、ツエマリ人、ハマテ人を生んだ」とある。これらの民はやがてイスラエルによって聖絶の対象となり、神に敵対する偶像を拝する民になる。
創世記10章1節、6節【新改訳聖書2017】
1、これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。大洪水の後、彼らに息子たちが生まれた。
6、ハムの子らはクシュ、ミツライム、ブテ、カナン、
創世記10章8節~12節【新改訳聖書2017】
8、クシュは二ムロデを生んだ。二ムロデは地上で最初の勇士となった。
9、彼は主の前に力ある狩人であった。それゆえ、「主の前に力ある狩人二ムロデのように」と言われるようになった。
10、彼の王国の始まりは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。
11、その地から彼はアッシュルに進出し、二ネべ、レホボテ・イル、カルフ、
12、および二ネべとカルフの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。
ニムロデ(ニムロド、ニムロッドとも。ヘブライ語: נמרוד、Nimrôd)
ニムロデ(ニムロド、ニムロッドとも。ヘブライ語: נמרוד、Nimrôd)は、旧約聖書の登場人物。『創世記』第10章において、クシュの息子として紹介されている。クシュの父はハム、その父はノアである。地上における最初の勇士で狩人であるとされる。
ユダヤ人の伝承が記された『ユダヤ古代誌』ではバベルの塔の建設を命じた王とされる。「ニムロデ」とはヘブライ語で「我等は反逆する」という意味。
上述した聖書の引用創世記10章8節~9節では、この箇所はニムロデがどのような人物だったかを敢えて注目させようとしていると解釈されている。彼は最初に都市を造った人であり、人々を守るために町を城壁で囲んだ最初の人でもあったと言われている。そのようなことから二ムロデは私たちを守ってくれる人として非常に尊敬をされていた。やがて人々は彼を神のように仰ぐようになっていったと言われている。
更に彼はバベル、アッシュル(アッスリヤ)、二ネべを造っていった。これらの町々は将来神の民にとって敵対する国々や町となってゆく。セム、ハム、ヤペテのそれぞれの子孫は、完全に分かれたわけではなく、ヤペテは今のヨーロッパあたりに行き、ハムはアフリカに行った。そしてセムはアラビアのペルシャ湾の近くに移り住んだ。アブラハムはこのセムの家系から出て来た。将来神様の敵となるハムの後裔はアフリカに行ったとはいえ、バベル(バベルBabelは、ギリシア語表記はバビロンで知られる古代メソポタミア都市の旧約聖書におけるヘブライ語表記)や二ネべ(古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市、旧約聖書ヨナ書の舞台)を造って神様に反逆していった。
ハムの長子クシュの子二ムロデが造った都市や町々は、バベルや二ネべ、アッシュル(アッスリヤ)等だったが、ここからアッシリヤやバビロンが生また。この地はセムの土地であったが、この地から将来神様に敵対する人々が生まれ育っている。ハムの次子ミツラムが造ったのはエジプトで、ハムの末の子カナンの子孫は神様の約束の地で育ち、ことごとく神様に敵対する異教徒達だった。
原理講論で説明されている神様の救援摂理は、ノアの家庭がハムの失敗によって摂理は再び延長されるようになるが、ノアの後に選ばれた中心人物がアブラハムであった。彼はまさに※カイン圏(本来神様の人類救援摂理はアベル圏を中心になされる)から原理的合理性によって復帰されるということが起こってしまう(詳細は割愛)。
創世記11章1節~4節【新改訳聖書2017】
1、さて、全地は一つのはなしことば、一つの共通の言葉であった。
2、ひとびとが東の方へ移動した時、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
3、彼らは互いにに言った。「さあ、レンガを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
4、彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
彼らが塔を建てた動機は、名をあげるためだった。自分たちの名声を得るため、そして神様によって散らされるのを避けるために、城壁を造り町を造り上げていった。
下の図は、ノア家庭で父性排撃したハムの血統から生じ繁殖した世界の偶像を拝む宗教、宗教的土着文化、自然崇拝の中に「神および神的存在」、「神の息子的存在および救い主的存在」、「母的存在および妻的存在」である。宗教と宗教、民族と民族、文化と文化が交じり合う過程で、これらが複合的に繋がり、「女神信仰」「聖母信仰」「母子礼拝」が生まれてくると考えている。
TAMMUZタンムーズ、タンムズ:アッカド神話、シュメール神話の神。神の息子、メシア的人物。イナンナ/イシュタロの夫。聖書から読み解けば、太陽神である。現代に続く自然崇拝の神であり、偶像である。ASHTORETHアスタロト:紀元前2千年紀のフェニキアの女神アスタルトに由来する。アスタルトはバビロニアのイシュタル、およびそれ以前のシュメールのイナンナに相当する。ヘブライ語聖書では、アシュトレト(単数形)とアシュタロト(複数形、複数の像があることから)。古代イスラエルでは、ベルゼブブやルシファーと一体であるととらえられていた。
タンムズは、母と同じような愛と豊穣を表す。ハムの長子クシュの子二ムロデから、女神が生まれる。愛と豊穣を象徴しており、その女神を崇め奉る信仰の特徴を持った、このような型を持った宗教が名前を変えて世界にも広がり現れた。イスラエルでは父のモデルになる存在を「バール」と呼び、息子を「タンムズ」と呼んでいた。そして、天の母をアシュトレー。フェニキアでは「アシュタロテ」。更にIshtarイシュタルは愛と美の女神といわれ、伝説ではTammuzタンムズという夫のような息子のような豊穣の神的存在は、木々の葉が散る頃死に、春新芽生える頃、タンムズは、イシュタルが黄泉まで迎えに行き生き返ると言われている土着信仰の神々である。これは自然の移り変わりに相関していて、自然崇拝や太陽信仰とも結びついている。
ニムロデからマリア崇敬
高木 慶太師(吹田聖書福音教会の創立者)は、
女大祭司であるニムロデの妻がタンムズという息子を奇跡的に妊娠したと主張し、人々に彼を救世主と説き、これが息子を抱く天の女王崇拝の原型となったとし、「天の女王」を世界各地の女神信仰と結び付け、さらに後代のマリア崇敬に繋がったとしている。wikiニムロド引用
エゼキエル8章13節~14節【新改訳聖書2017】
13、また私に言われた。「あなたはなおもまた、彼らが行っている大きな忌み嫌うべきことを見る。」
14、それから、この方は私を主の宮の北の門の入り口へ連れて行かれた。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた。
フレデリック・A・タトフォード著「エゼキエル書注解」
「春に雨が降り、植物が成長するのは、タンムズがよみがえり、イシュタルと結婚するからであるとされた。豊饒の儀式はその一連の出来事と結婚を祝い、理論的にはその国の豊作を保証するものであった。・・タンムズのために嘆くこの儀式が豊饒の儀式の性的な行為と結びつけられ、これらのことが神殿のすぐそばで行われていた。」
エゼキエル書にある神殿の中で「女たちがタンムズのために泣きながら座っていた。」とあるのは、現在もカトリック教会の「四旬節」と同じと言われている。新約聖書、旧約聖書のどこにも書かれていない四旬節は、異教の儀式が入り込んだものが、いまでも残っている。
シュメール神話における豊穣神イナンナ(Inanna)と習合されて、セム人のAshtoreth、ローマでは、ビーナス、マドンナ、アルテミス。母子礼拝が世界中に見られる。エジプトではイシス(母)とホルス(子)、インド(ヒンドゥー教)では、デーヴァキー(母)とクリシュナ(息子)。ローマ・カトリックではマリア(母)とイエス(息子)の像は、キリスト教ではなく、異教の特徴が見られる。
アフロディテはギリシア神話の女神
ローマ神話のウェヌス(ビーナス)にあたる。 起源はセム系の女神アシュタロテ(アスタルテ)と言われている、元来は豊穣をつかさどったが、のち愛と美の女神となる。戦いの女神としての側面も持ち、生殖や豊穣、春の女神でもあった。 ヘシオドスによれば,クロノスが父神ウラノスの陽物を切って投じた海の泡から生まれ,オリンポス十二神に入る。
父性排撃から生じるモレク信仰と父性の実体として降臨されるキリストへの信仰
ソロモンは年老いて心が弱くなった時、父ダビデが従った神とは違う神ミルコムへ、彼を取り囲む女たちによって向けられたと、列王記第一には記されている。かってソロモンは知恵を下さいと神様に祈ったが、偶像の傍らで、偶像信仰の影響を受け偶像の神殿まで建てるに至ってしまった。人は心の中心がぶれるとこんなにももろく偶像に傾倒する。
列王記第二23章10節【新改訳聖書2017】
10、彼はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれも、自分の息子や娘に日の中を通らせてモレクに献げることのないようにした。
列王記第一11章3節~5節【新改訳聖書2017】
3、彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが敵の心を転じた。
4、ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つになっていなかった。
5、ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。
列王記第一11章7節【新改訳聖書2017】
7、当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした。
レビ記20章1節~5節【新改訳聖書2017】
1、主はモーセにこう告げられた。
2、「あなたはイスラエルの子らに言え。 イスラエルの子ら、あるいはイスラエルに寄留している者のうちで、自分の子どもを取ってモレクに与える者は、だれであれ必ず殺されなければならない。民衆がその者を石で打ち殺さなければならない。
3、わたしはその人に敵対してわたしの顔を向け、彼をその民の間から断ち切る。彼がモレクに自分の子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚したからである。
4、もしも、人がモレクに自分の子どもを与えるときに、民衆がそれを見て見ぬふりをし、彼を殺さないことがあれば、
5、わたし自身が彼とその家族に顔を向け、彼と、彼に倣いモレクを慕って淫行を行う淫らな者をみな、その民の間から断ち切る。
モレク(Molech、ヘブライ語:מלך (mlk))
モレク(Molech、ヘブライ語:מלך (mlk))は、古代の中東で崇拝された神の名。カナンの神のヘブライ語名。男性神
人身供犠が行われたことで知られる。ラビ・ユダヤ教の伝統では、Molochは生贄が投げ入れられる火で熱されたブロンズ像とされる。また、ギリシャ、ローマの作家によってカルタゴのバアル・ハモンにおける子供の人身御供とされた。
カナン人との戦いを神が命じたのはなぜなのか。カナンでは、不道徳,異教の崇拝、子どもの生贄が事実行なわれていた。聖書歴史家ヘンリー・H・ハーレイによると、その地域で発掘を行なった考古学者たちは、バアル(カナン人の主要な神)への生贄(いけにえ)にされた子どもたちの遺骨の入った壺を大量に発見した。
聖書歴史家ヘンリー・H・ハーレイによる新生児墓地の発掘
ハーレイはこう付け加えている。
「その全域が新生児の墓地であった。……カナン人は、自分たちの神々の前で宗教祭儀として不道徳行為にふけることにより、またその後、自分たちの長子をそれら同じ神々への犠牲として殺害することにより礼拝を行なった。カナンの地は大方、国家的規模でソドムとゴモラのようになっていたようである。カナン人の諸都市の遺跡を発掘する考古学者は、神がなぜもっと早く彼らを滅ぼさなかったのだろうかと不思議に思うほどである。」
人間は心の中心をどこに置くかといえば、本来は神様に置いた。即ちそれは神様に垂直的に侍ることによって、神様の品性が私の品性として現れる時に、初めて律法を守ることができる。キリストに身を捧げ、キリストを救い主と受け入れたなら、それまでの人生がいかに罪汚れたものであったとしても、キリスト故に義と認められる。信仰によってキリストは心の内に住み給い、信仰と、たえずキリストに自らの意思を従わせることによって、キリストとの関係を持続させることができる。信仰と自らの意思をキリストに従わせることである。
ゲヘナは、ギリシャ語でヒンノムの谷を意味する。その谷は古代エルサレムの南から南西に位置する峡谷で、聖書ではヨシュア記15章8節に最初に言及されている。元来、今日のエルサレム市の城門の外にある、深くて狭い谷底のゴミ捨て場である。そこでは、ごみを処分するために火が燃やされ続け、悪臭を放っていた。また、処刑された罪人の体や、ふさわしい埋葬をされなかった人体が埋められる場所でもあった。旧約聖書時代には、モレクの神への幼児犠牲が行われた場所として記述されている(列王記下23章10節)。
イエス様当時ヒンノムの谷は、犯罪者たちの死体を燃やすごみ焼却場であり、古くはモレクの神への生贄として幼児の人身御供を行っていた場所でもあった。イエス・キリストは、この場所を通して、罪を犯した魂たちが入る火の池があることを教えてくださった。マルコの福音書第9章43節~50節
マルコの福音書9章43節~50節【新改訳聖書2017】
43、もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
44、ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
45、もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
46、ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
47、もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。
48、ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
ガラテヤ人への手紙2章20節【新改訳聖書2017】
20、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えて下さった、神の御子に対する信仰によるのです。
マタイによる福音書10章20節【新改訳聖書2017】
20、話すのはあなた方ではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
上述した聖書の内容は、キリストと一体となった精神であり、神様のご意思の現れである。カトリック教会はイエス・キリストよりもマリアを高める宗教である。
ローマカトリックにおける異教的女神信仰と聖母信仰
A.D.431年マリヤを崇拝し、「神の母」という言葉がエペソ公会議で初めて用いられる。
A.D.1508年アヴェ・マリアの祈りが法王シクストゥス5世によって承認される。
A.D.1854年処女マリア無原罪懐胎説が、法王ピウス9世によって宣言された。
A.D.1950年処女マリアの聖母被昇天(マリア死直後、肉体のみ昇天)が法王ピウス2世によって宣言された。
A.D.1965年マリアは、法王ヨハネ6世によって「教会の母」と宣言された。
父を排撃し垂直性が失われた韓鶴子聖母信仰の核心は、旧約時代から血統に入り込んだ外的に物質化された豊かさを求める性質であって、それらを得るために我が子さえも生贄にする、極端なまでの物質的欠乏を恐れる、それは、父なる神様と一体となることを通して得られる豊かさとは真逆の心から来るのではないだろうか。
エレミヤ書7章16節~18節【新改訳聖書2017】
16、あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをさげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。
17、彼らがユダの町々や、エルサレムの通りで何をしているのか、あなたは見ていないのか。
18、子どもたちは薪を集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて「天の女王」のための供えのパン菓子を作り、また、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こそうとしている。
復活祭を表す英語「イースターEaster」とドイツ語「オースタンOstern」は、ゲルマン民族神話に登場する春の女神「エオストレEostre」の名前は、ゲルマン人が用いた春の月名「エオストレモナトEostremonat」に由来していると言われている。「東側Ostで生まれて地に新しい命をもたらす春の太陽」を象徴していたこの女神は、「イースターの卵」や「イースターのウサギ」が象徴する、旺盛な生殖と多産を約束した。この「エオストレEostre」は、古代カナンの多産の神アシタロテやアッシリアとバビロニアの愛と多産の女神イシュタルと同じ存在であることが分かっている。
父性の現れという観点で聖書を観れば、旧約聖書の神様は、罪を犯した人間とは絶対に交わることのない神様であり、その様相は威厳に満ち、絶対的で圧倒的な権威の主体である。そこから出てくる父性は、罪びとを容赦なく聖絶する切断力であり分別力として現れた。しかし、先ほども述べたが、神様の救援摂理の目的は、神様の父性が実体化された御子キリストの降臨によって、神様の実子の姿を通して地に現れる。御子はやがて成長し妻を娶り、母が父に侍りながら完成して初めて母性が地に現れ、人類始祖アダムとエバが成すことができなかった、真の父母が現れる。神様の真の愛の実体理想が家庭的四位基台として現れると私は理解している。韓鶴子氏にお伝えしたいことは、お父様の御存在があってのあなたなのだ。お父様を一瞬でも否定すればあなたも消える。御子たるキリストと一体となってはじめて「善悪知る木」となってしまったエバの罪が取り除かれ解消される。その段階で真の女性、真の母が生まれる。その逆の流れはあり得ない。それは聖書歴史を含む全歴史過程の中で実証されている。
朝鮮民族は選民を選ぶのか、賎民を選ぶのか
これからの話は個人的感想の類として聞いて頂きたいが、かつて家庭連合に所属していた時代に、韓国人指導者と日本人指導者を傍で見てきて感じるところは、教会内における悪の強度と量においては、少なくとも私が接してきた肌身感覚としては、韓国人指導者の方が変な話だが勝っていたと感じている。全ての韓国リーダーではないが、その特徴は如何に真のご家庭に、自身の家庭が手柄を立てることによって入り込むかが最大のモティベーションかのごとく、隠すこともなく公言していた。日本のリーダーといえば、小市民的に韓国の悪のリーダーに僕のように忖度して、自身の地位と権益を如何に守るかがモティベーションのように観えた。その一例として、身近にいたある婦人部長は韓国人リーダーによって数千万円使いこまれたと言っていたが、止められる立場にあったあなたも同罪ですと言った覚えがある。
アメリカで最高の名誉ある勲章は「名誉勲章(めいよくんしょう) Medal of Honor」と聞いているが、選考基準は「戦闘においてその義務を超えた勇敢な行為をし、若しくは自己犠牲を示したアメリカ軍人」となっている。そして重要なことは、どれだけ敵を殲滅(せんめつ)させたかと同時に、どれだけ見方である仲間を助けたのかが選考基準のなかにあると聞いたことがある。
その上で不思議に思うのは、最高基準の道徳規範でもある原理を解かれたお父様の同胞であり、選民を称している民族が、何故苦しんでいる仲間を犠牲に出来るのだろうか。国進監察総監様は、今まで韓国リーダーが誰もやらなかった日本人食口を解放しようとした時、先ずされたことは韓国リーダーとの面接だったと聞いている。その面接の際に、最初に質問される内容は「どんな車に乗っているのか?」だったそうである。この話を聞いた時私は、国進監察総監様は実情を本当に良くご存じだったので、大変驚いたことを覚えている。
天心苑徹夜精誠で、李苑長がお父様からの啓示と称して明らかに嘘とわかる「口寄せ」を行っている。お父様は恐らく高い霊的能力をもっておられた方だと私は実感しているが、しかし、その能力を疑問を抱くほどむしろ抑制的に振舞われておられたと理解している。我々の前では、論理的に、理性的にみ言を語られていたと私は理解している。そんなお父様が「口寄せ」として現れるはずがない。宇宙は霊肉ヒエラルキー階層構造から成っている。その一番低レベル層が物理層である。神様が一番低い低レベルに干渉し現れるのが物理層である。私たちはそれらを理性的に合理的に実証的に精察しながら真理を探究し理解し受け入れる。お父様が私達にみ言を下賜して下さったのは万民救済のためであることがこの観点から理解することができる。この様な視座に立てば、愛の基準と霊的能力のない私たちに悪意を持って「口寄せ」を行い権威付けされれば皆騙されてしまう。食口は権威付けされたものに関しては思考停止する。思考停止した状態で、神様とサタンを見分けることはできない。そして、三代王権という一系を立てておきながら「口寄せ」をすれば、信仰に混乱が生じるだけである。そんなことをお父様はされるはずがない、それは絶対にないと断言できる。
李苑長という方は何故このようなあり得ないお父様の名をかたり、姑息なことをして御名を汚すのか。何故お父様の意に反して、それも古代から現代にいたるまで神様が忌む行為「口寄せ」を使って伝えなければならないのか理解できない。お父様が宗教と科学の統一を生涯かけて、信念として歩まれた方を何故引き落とすことを敢えてされるのか理解できない。原理講論には「神霊と真理」という言葉がたくさん出てくる。人間には霊的側面と肉的側面があり、神様が霊的部分に臨在され感化し、その基台の上で霊的部分と肉的部分、主体と対象との間で、主体から対象に向けて相対基準を造成し関係が結ばれる。授受作用である。霊肉一体の作用は力を生み出し、その果実が霊的影響として翻って霊的部分に恰も還元されるがごとく返され、霊の成長のために使われてゆくとういのが原理の入門書、原理講論創造原理第六節の重要な内容である。
旧約聖書 口寄せに関する聖句【新改訳2017】
旧約聖書:レビ記:19章:31節 あなたがたは霊媒や口寄せを頼りにしてはならない、彼らに尋ね、彼らによって汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。
旧約聖書:レビ記:20章:6節 霊媒や口寄せのところに赴き、彼らを慕って淫行を行う者があれば、わたしはその人に敵対してわたしの顔を向け、彼らをその民の間から断ち切る。
旧約聖書:レビ記:20章:27節 男でもは女でも、彼らの間に霊媒や口寄せがいるなら、必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺さなければならない。その血の責任は彼らにある。」
旧約聖書:申命記:18章:11節 呪文を唱えるも者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。
旧約聖書:サムエル記第一:28章:3節 サムエルはすでに死に、全イスラエルは彼のために悼み悲しみ、彼を彼の町ラマに葬っていた。一方で、サウルは国内から霊媒や口寄せを追い出していた。
旧約聖書:サムエル記第一:28章:9節 女は彼に言った、「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち切ったことをご存じのはずです。それなのに、な、わたしのいのちに罠をかけて、わたしを殺そうとするのですか。」
旧約聖書:列王紀第二:21章:6節 また、自分の子どもに火の中を通らせ、卜占(ぼくせん)をし、まじないをし、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、いつも主の怒りを引き起していた。
旧約聖書:列王紀第二:23章:24節 さらにヨシヤは、霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、ユダの地とエルサレムに見られるすべての忌むべき物も除き去った。こうして、彼は祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物に記されている律法のことばを実行した。
旧約聖書:歴代志第一:10章:13節 このように、サウルは主の信頼を裏切った不振の罪のゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いをたてることまでして、
旧約聖書:歴代志第二:33章:6節 この彼は、ベン・ヒンノムの谷で自分の子どもたちに火の中を通らせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行い、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、いつも主の怒りをひき起していた。
人間は霊と肉とが一体となって構成されている。そんな人間の生の目的の一つは霊の成長である。人間が死後例外無く行く世界である霊界は、霊を完成させて行くところであり、霊界での霊の成長や繁殖は無い。では人生における霊の成長の中心は、目に見えない神様との関係であり、人との関係であるとイエス・キリストは語られた。韓国の一部のリーダーの方々が目指しておられるのは、恐らくお父様との親族関係を結ぶことだと思うが、残念ながら天国に入るための縁故枠などない。明らかに嘘と分かることを言ってまであなた方は何を成そうとしたいのだろか、人を騙してまで実績を上げることに何故執着するのか。その上で改めてお考え頂きたいのは、お父様と、お父様から下賜されたみ言に帰って頂きたいということである。何故なら我々に地上で残された時間はそんなに多くはないからである。
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