文鮮明 原理原本【世界平和統一聖殿】第一巻序章「一」から全存在へP12
- 1、太初はすなわち「一」であられる。この「一」がすなわち太初の根本である。この根本がすなわち「ハナニム(神)」であられる。この「一」なる存在こそ、無限小から無限大なる存在の根本である。この「一」なる根本が全体の根本であり、また全体の中心であり、またあらゆる作用の外力に対して平衡をとる起本接点(基本支点)である。
- 2、そして、現代の科学時代に身をおく我々の生活課程では、数学を離れてその基本発展の軌道を定めることはできない。複雑で多端な現実社会を構成する基礎も、数の単位である「
一」を中心として、その中心を主として展開させ大数の実体を生み出すことは、我々のよく知るところである。それゆえ、ある存在の根本を立てるためには、「一」なる存在を確定し、存立させることが重大である。この存在が決定すれば、再び「一」から増数の重大な要素を加減し、組み合わせていくことができる。ここに発展があり発達がある。
- 3、そうだとすれば、あらゆる事物の根本を推測しようとするとき、「一」なる根本単位が絶大かつ重要な要求要素である。この要素が決定すれば、我々と重大な関係を結ぶ外部に対して、どのように動作するかを決定する基因となる。すなわち、この根本が外部に対する動作を自由軌道へと転ずる中心点なのである。この中心点が公式の根本単位であり、他のあらゆる事物に影響を及ぼす第一存在である。ゆえにこの存在が第二存在まで到達する決定的な起点となっていることが分かる。
- 4、この第二存在の要求は何かというと、第一存在の決定的な根本単位との関連を断ち切ることのできない増数単位と言うことができる。この基本の単位数から無限数に到達する進級過程で表示されるものを「公式」と言う。だとすれば、現代社会のあらゆる存在は、根本単位を離れ、また公式原理を離れて存在の決定的存立を保証することはできない。
トマス・アクィナス『神学大全』稲垣良典著 講談社学術文庫からの抜粋
- Ⅵ 通常の探求の順序で言えば、「神は存在するのか」という問いの後「神は何であるのか」という問いが続くはずであるが、トマスは明確に「神についてわれわれはその何であるかは知りえない」ので、われわれは神については専(もっぱ)ら「神は何であらぬか、いかなる仕方においてあらぬか」を考察しうるにずぎない、と言う。このように、神についての認識は否定を通じてのみ可能である。という基本的姿勢を堅持しながら、神は単純である。完全である、善である、無限である、万物において存在する、不変である、永遠である、など神にのみ帰せられることの可能な「属性」が枚挙され、最後に第十一問題で神は一であること(一性)が考察された。
- トマスは「神が一であることは三つの点から論証される」と述べ、神の単純性、無限な完全性、世界の一性という三つの点からして、神が「多」であることの不可能性、つまり多くの神が在ることは不可能であり、神は「一」でなければならないと結論する。問題は「神は一である」と言う場合の「一」であるが、けっして一、二、三.......と物を数える場合の「一」ではないことに注意しなければならない、神は単純であることが考察されたさいに、神は物体ではないことが真先に確認されたのであるから、神について物体、つまり量的なものが数えられるさいの「一」があてはまらないことは明白なのである。
- では「神は一である」と言うときの「一」はどのように理解したらよいのか。トマスは「神は一である」ことを考察した議論の末尾で「そしてこれが神である」(Et hoc est Deus)と言い切ることによって、明快にこの問いに答えている。※「五つの道」はすべて、われわれを「万人が神と理解する者」「万人が神と呼ぶもの」「われわれが神と呼ぶもの」で導いてくれるところで終わっていたのに対して、その後に続く神のみに帰せられることの可能な諸々の「属性」を考察することを通じて到達された神の「一性」は、いわば神のアイデンティティーであり、「神と理解されるもの、神と呼ばれるものを指すにとどまらず、端的に「神」を指しているのである。言いいかえると「神は一である」ことの論証は、「神は神である」という端的な(しかし同語反復ではない)肯定をかのうにするものであり、そこでは「五つの道」よりはより完全な仕方で神存在の論証が成立しているということができるだろう。
- 言うまでもなく、「神は神である」と肯定することができると言っても、「神の何であるか」を完全に把握しているのではない、つまり神の本質を理解しているのではないから、それもまた否定によって根本的に限定された神の認識であることに変わりはない。実はトマス自身、第十一問題で「これが神である」という、神のアイデンティティーを捉えたとも受け取られる言明をしたのに直ちに続いて、次の第十二問題(神はどのような仕方で名づけられるか)においては、それと正面から対立するような仕方で、人間知性による神の認識が極度に制限された、否定的なものであることを強調しているのである。一つだけ例を挙げよう。
- (知性の自然的光のみによる場合は言うまでもなく)恩寵の啓示によっても、われわれはこの世においては神について「何であるか」を認識することはなく、したがっていわば知られざるままの神に結ばれるにとどまる。
- この箇所にかぎらず、トマスの著書のいたるところに、人間による神認識の限界についておそらくこれ以上に否定的に述べることは不可能であろう、と思われるほどの否定神学的な言明が見出される。たとえば「われわれが自分たちが神とは何であるかについて無知であることを知っていること、まさにそのことが神を認識することにほかならない」、あるいは「神が何であるかは、われわれが神について認識するところをすべて超えていることを知っているかぎりにおいて、おのれが神について無知であることを悟ること、それが人間的認識の究極である」などの言明に接した読者は、神学者トマスが人間の神認識についてどうしてこのような「不可知論」的な言い方をすることができたのか、いぶからざるをえないだろう。
- ※参考までにお伝えしますが、「五つの道」とは、トマスが著書中で示した神の探求に関する方法と私は捉えています。
ヤコブの手紙1章13節~19節【新改訳聖書2017】
13、だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。
14、人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。
15、そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
16、私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
17、すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。
18、この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。
19、私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
ヨハネの福音書14章1節~7節【新改訳聖書2017】
1、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2、わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3、わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4、わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5、トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6、イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
7、あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
ヨハネの福音書8章32節~36節【新改訳聖書2017】
32、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
33、彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
34、イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
35、奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。
36、ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。
ヨハネの福音書18章37節~38節【新改訳聖書2017】
37、そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
38、ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」 こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私はあの人に何の罪も認めない。
再臨主によって実現された信仰と理性の統一
私は今回アメリカで開催れた第七回鉄杖祝祭に参加し、ジャパニーズクワイアーに参加させていただいた。リパブリック讃歌The Battle Hymn of the Republicには、昨年もそうだったが、何時も涙がこみあげ感動と感謝に心が潤されるが、この瞬間、アメリカの偉大さを実感する。栄光あれ、栄光あれ、神を称えよ! 主の真理は進み続けるGlory, glory, hallelujah! His truth is marching on
文鮮明 原理原本【世界平和統一聖殿】第一巻序章「一」から全存在へP16~17
- 16、実体世界(有形世界)は人間と万物の展開を意味する。この有形世界は、無形世界を表示する影体(自らが反映した実体)として発展させようとするものであり、それがすなわち創造の意義である、これを簡単に表示すれば、「神=人間+万物」ということになる。神自体は「一」が、性としては両性であり、この「一」それ自体である自我(神)を複数体系として展開したということが創造の根本意義なのである。
文鮮明 原理原本【世界平和統一聖殿】第一巻序章「一」から全存在へP17~19
- 18、いかなる事物においても、この性品をどこでも見ることができるというのが天理ゆえに、それは根本のみ旨から始まったという事実を証明するものである。それゆえ、「一」から始まって複数となり、この複数存在が完全な本性である完全単数に再び帰るようにしながら、単一単数として繁殖、増大することが根本である神のりそうとなったのである。そのりそうの中心点である人間を中心に天誅を創造したことを知るようになるとき、我々人間と神との関係が非常に重大な問題である。それによって我々の人生問題の根本解決に対する決断(結論を出して断定すること)が下るのです。
- 19、神は根であり、人間は幹と枝であり、万物は葉部である。ゆえに我々人間は、神に似るために心を中心として生き、万物は人間の手助けをするため人間に摂取されるようになる。そして、根であり根本体である神の手助けをするために人間に摂取されるとき、一つの関連作用が反復され、根本完成の手助けをするようになるのである。これが創造の中心意義である。
- 20、このような創造原理からなる個性真理体の人間が求めていく真理も、その真理を中心に神の理想を求めていく根本摂理路程も、すべて大数が総結(全体を束ねて結ぶこと)された単数に帰結することが分かる。つまり天宙も合わされば同性体(同じ性質をもつ実体)として一つになり、分かれれば無数に存在するようになる。この加減の妙味が天宙の原理である。
- 21、言い換えれば、神が創造された天宙の中には、秩序整然とした相対性の創造的原則と対象原理の完成により、極小から極大までの存在が絶え間なく配列されている。すなわち、神という存在の根本から万物存在の根本とが「一貫通話いっかんつうわ」(一貫して和合していること)し、あらゆる存在が分立と合体を加減しながら展開されていることは誰もが分かる事実である。
- 22、この事実を探ってみるとき、その深大、深広、深高な妙理がどの方向から見ても「禁知無数きんちむすう」(数えきれないほど無数に存在すること)ゆえに、天宙全体が神妙な妙理によって展開されているのである。その妙理に対して、まず自身が単位となって同形体として立つことができ、かつ相対できるとき、無限の新しい真理が出現することを体験できる。過去と現在を通じて、この新しい真理が改めて要求されるのである。
文鮮明真のお父様(以下、愛と尊敬を込めて「お父様」と表記)の偉大さは、宗教と科学を統一的に説明できる真理を解明されたことである。これは一宗教団体の教義ではないし、一宗派の教理でもない。宗教カテゴリーに限定すれば、全ての宗教を包摂さえする教えであると私は考えている。ともすれば宗教教義は理性を中心として、特定宗教に限定した、理性に信仰を被せた、実は頭だけの教えになりがちである。お父様のみ言によれば、真理(真理の証明)は必ず経験則(自然観察も含む)に基ずかなければならなず、実証的でなければならないと何度も語られている。ハイデガーは著書「芸術作品の根源」の中で、真理とは「覆い隠されていないものアレテイア (ἀλήθεια, Aletheia)」と表現している。黙示録Apocalypseが成就する時代、覆い隠されていたものが明らかになる時代(「黙示」とは古代ギリシャ語の「覆いをはずすこと」)、それは、お父様の真理を持ってのみ可能な時代と言うことを実感している。
真理は人間の魂を神様にいざない、神様は我々の魂に感応し応答し恩寵として私に臨まれ、そこに共感が生まれ、心身一体の充実感と、心技体が磨かれてゆく研ぎ澄まされた感性が身につき直感が生まれる。反転して、再び本能から真理に委ねるという自然な循環が生まれ、自らを神様の更なる深みへと至らしめる。その時私は地の理だけではなく、神様が臨まれる、本能的なものに忠実でありたいと心から願う。
冒頭のお父様のみ言を観れば、神様の説明(言語化作業も含めて)を数理(数の理)を使っておこなっているが、数理や数式は、自然界、物理世界を形式化し、分かりやすく説明をするのには、適当な言語といえる。がしかし、数理にも証明できないことがある。「数理でも証明できないことがあることを証明」したのが、※1クルト・ゲーデルの不完全性定理(後に、グレゴリー・チャイティンによってアルゴリズムや計算可能性の分野に不完全性定理的影響が出てくることを証明)と言われている。お父様の語られる数理の概念には、神様と被造世界との結びと繋がりの関係性を土台にした数理であり、そこには不完全性は成立しないと考えている。更に、この数理を基にした普遍構造(普遍的な※2フラクタル構造)は、時間と空間を超えたあらゆる存在に観ることができると語られている。
パラドックスを使った説明
- エピメニデスのパラドックス
- 「クレタ人は嘘つきだ」が真実であれば、そのクレタ人も嘘つきです。とすると、そのクレタ人の「クレタ人は嘘つきだ」という発言も嘘になるので、そのクレタ人は正直者ということになります。
- 「クレタ人は嘘つきだ」が嘘であれば、そのクレタ人は正直者ということです。とすると、そのクレタ人の「クレタ人は嘘つきだ」が真実になってしまうので、そのクレタ人は嘘つきということになります。
- 「自己言及のパラドックス」的なパラドックス
- 「この文は証明できない」という命題を考えてみよう。もしこれが証明できたら内容と矛盾し、証明できなければ主張自体は真実だが、「証明」はできない。このように「真実だが証明できない」ものが数学には必ず存在するというわけだ。
メシヤとは、堕落した後につくられた堕落体系(堕落後につくられた信念体系)の外から来た存在
ゲーデルの定理の概念を借りれば、つまり、同一系(血統的に繋がった体系を「堕落系」として観た場合)内に存在した場合、サタンの血統に繋がった体系に居る人間(堕落人間)には「原罪」は分からない(おとうさまのみ言では「ひとつになっているから」と語られている。)。これらのことを原理的合理性で推論すれば、お父様が罪の根源である「血統的罪」を何故分かったのか、それは私たちが居る閉鎖的体系(サタンとの血統の繋がりで、霊界と肉界が分離した、肉界だけの世界観や、肉界を主体として全てを推し量ってしまう信念体系から描かれる閉鎖的な世界観等)ではない、堕落体系をはるかに超えた、堕落体系を包摂さえしてしまう解放的で、完全自由な体系と繋がった存在だと結論付けできる。お父様のみ言は、私たちとは全く違った体系からもたらせられたものであり、この世(堕落体系)には存在しない。更に、お父様の以下のみ言から推論すれば、「完全性」とは、神様が人間との繋がりの中で、愛を中心に神様の理想が被造世界に拡大させた中で成就される時に、神様の喜びが、私たちの喜びとなって同時共鳴歓喜する中で得られる感覚となる。数理は、自然環境や物質世界を推し量り、規定するための材料(認識も含む、判断の材料)となりえるのが数理的言語なので、被造世界は無限(一般数学では証明できない)の創造が成される場なので、限られた体系を限定的に規定すれば、限りなく証明できない、非確信的世界が永遠に繰り返されるだけなので、不完全性定理的状態が限りなく創られ続けると推論できる。なので私は、人間は神様が絶対的に、永遠に必要な存在だと考えている。
文鮮明総裁 講演文「宇宙の根本を探して」1996年8月1日世界平和家庭連合創設会議 閉会晩餐会 ワシントン・シェラトンホテル
格式あるこの壇上から、このような話をすれば失礼だと思われるかもしれませんが、実感のわく話なので、一つの例を挙げてみましょう。皆様も毎日、朝起きてトイレに行かれることでしょう。大便をするときマスクをして用を足されますか。笑い事ではなく、まじめな話しです!
もし、ほかの人がそばで用を足して、そのようなにおいを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずですが、なぜ自分の大便のにおいは、そのまま嗅いで、平気で座っていらるのでしょうか。それは、自分の体と一つになっているので、自分は大便を汚く感じないのです。
皆様、幼いとき、鼻くそをほじくってなめてみたことがありますか。その味は甘かったですか、しょっぱかったですか。しょっぱいですって?その味を知っているところを見ると、皆、経験者ですね!
なぜ、その鼻くそを汚く感じなかったのでしょうか。それは、それがまさにわたしたちの体の一部分だったからなんです。世の中の誰も分からなかったことをレバレント・ムーン(文鮮明総裁ご自身)が初めて発見したのです。皆様、咳をして痰が出れば、ごくっと飲み込んだりもするでしょう?
ここに列席なさった大統領の皆様はいかがでしょうか。そのような経験はありませんか。取り澄ましていないで素直に答えてみてください。なぜ、汚く感じないのでしょうか。それは、皆、一つになっているからなのです。
文鮮明総裁 講演文「宇宙の根本を探して」1996年8月1日世界平和家庭連合創設会議 閉会晩餐会 ワシントン・シェラトンホテル
私たちは皆、朝、昼、晩と、毎日三食ずつ食べていますが、実は、私たちの口から三十センチほど下りれば、そこには肥料工場があるのです。毎日、三食ずつ食べて、その肥料工場に原料を供給しているのです。ワアー!そのことを知ったあとでも、箸とスプーンが口に入りますか。おなかの中に肥料工場があることを知りながらも、そのことを感じないで私たちは生活しています。なぜ、感じられないのでしょうか。それは、一つになっているからです。愛、生命、血統、良心があっても、一つになっていて完全にバランスがとれていれば、感じることができないのです。
ですから、神様も相対が必要なのです。相対の必要性をここに見出すことができるのです。男性でも女性でも、独りののときは愛を感じることはできませんが、男性の前に女性が現れ、女性の前に男性が現れるときには、相対的に刺激的な愛と血統が雷と稲妻のように衝撃をもたらして問題を引き起こすこということを知らなければなりません。
既に成している宗教と科学の統一と成約のディスペンセーションdispensation
余談だが、このようなサタン由来の人間の脆弱性に気付き、悪用している人物が、私が何度もお伝えしているジョージ・ソロス氏である。現在トランプ政権財務長官スコット・ケネス・ホーマー・ベッセント氏は、かってジョージ・ソロス氏の投資会社でファンドマネジャーをしていた経歴があり、彼(ジョージ・ソロス氏)の投資理論の信奉者であることを公言している。上院で承認された初のLGBTQの財務長官である。ディープステート的な社会状況を引き起こしてしまう人間の脆弱性を生み出してしまう神様と繋がらない閉鎖的信念体系は、太古の昔から存在し、何故このような信念体系を人間が持つに至ったかは、聖書に正確に記述されている。神様はメタファーを使って神話の中で教えて下さっている。聖書の中にある人類始祖の末裔である私の信念体系の中にもあり、私の素性は、根本においては神様由来ではあるが、サタンを根とした同根状態でもあるので、或る条件を私が選べば(自覚、無自覚両方)サタンといつでも一体をなしてしまう。なので私たちは全く見抜けない。現実社会生活においても、私たちは何処かの何かの組織に所属し、末端にいる私たちは気付いてはいないが、上位者達はグローバルに繋がっている。ところが、上位と末端は繋がっており、相互に依存関係(特に経済的依存が大きい)にあるので、上位者の悪意が巧妙に隠された場合、悪意ある変化はほぼ100%見抜けない。二代王様はこのようなディープステート的組織構造と家庭連合の組織構造が同じであると見抜いておられたので、「沈黙を破って」以降私たちはそのことを知るに至った。
このような話をすれば、荒唐無稽な話を現実に結び付けることに抵抗を感じられる方もおられると思うが、何と、最先端物理学が今一番注目しているのは「仏教」の教えであり、最先端AI(AGI、超AI等)の設計哲学においては、宗教的概念の「空」を取り込もうとしている。又、ナシーム・ハラメインというぶっ飛んだ物理学者は、宇宙に存在するすべてのものは相互に関連し合っているという「コネクテッド・ユニバース」と呼ばれる理論を提唱している。更に彼は、宇宙にあるブラックホールは、なんと私たち被造世界を構成している原子の中の陽子であるという論文を2013年に物理学会に提出している。彼は宇宙の構造はフラクタル構造だということを主張しているが、マクロ的宇宙は私たちのミクロ的身体の中に存在していることを数式で説明している。彼の理論が正しければ、私たちが毎日見ている夜空に浮かぶ星空が広がる宇宙は、何と私の身体内のミクロの世界ということになるのだろうか。
以下に原理講論が示す、これから恐らく到来を実感するだろうメシヤ再臨以降3000年に向けての時代区分である。特に一般レベルで実感できるものとしては、⑤の現象がこれから頻繁に起こると私は予想している。それはたわいもない、取るに足らないもののようにやってくるかもしれないと観ている。
原理講論 後編 緒論 (二)復帰摂理路程【1982年第十七版改訂】P283~P286
(2)復帰摂理路程の時代区分①み言による摂理から見た時代区分
㋥また、イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代には、復帰摂理の完成のためにくださる成約のみ言によって、人間の心霊と知能の程度が完成級まで成長する時代であるので、この時代を「完成成約時代」という。
(2)復帰摂理路程の時代区分②復活摂理から見た時代区分
㋥イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、復活摂理の時代的恵沢と成約のみ言によって、人間が生霊体級まで完全復活する時代であるので、この時代を、「完成復活摂理時代」という。
(2)復帰摂理路程の時代区分③信仰の期間みを蕩減復帰する摂理から見た時代区分
㋥イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、サタンに奪われた復帰摂理の全路程を、天のものとして完全に蕩減復帰する時代であるので、この時代を「蕩減復帰摂理完成時代」という。
(2)復帰摂理路程の時代区分④「メシヤのための基台」の範囲から見た時代区分
㋥イエス再臨以後の復帰摂理完成時代は、成約のみ言によって、天宙的な摂理をすることにより、「メシヤのための基台」を完成しなければならない時代であるので、この時代「メシヤのための天宙的基台摂理完成時代」というのである。
(2)復帰摂理路程の時代区分⑤責任分担から見た時代区分
㋥イエスの再臨以後の復帰摂理完成時代は、人間が本来、天使までも主管するようになっている創造原理に立脚して、地上と天上にいる聖徒達が、堕落した天使であるサタンを屈服する第三次の責任を担って復帰摂理を完成しなければならない時代であるので、この時代を「聖徒の責任分担摂理時代」というのである。
中世における宗教(信仰)と科学(理性)の統一の萌芽
1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世は、フランスのクレルモン公会議で、東ローマ帝国の要請で、聖地奪還「第1回十字軍」を呼びかけた。断続的な十字軍遠征によって、ヨーロッパキリスト教世界は、イスラム教世界との交わりが始まり、それまでイスラム世界に広まっていたギリシャ哲学が、イスラム世界を通してヨーロッパに逆流した。
その後、ヨーロッパキリスト教世界では、12世紀のイスラーム哲学者イブン・ルシュドの影響を受け、神への「信仰」を土台とする真理の探求と、哲学的「理性」を土台とする真理の探究には、お互い矛盾があり(例えば天動説と地動説等)、それぞれ別次元のものであるとしてお互いを許容しつつ「二重真理説」なるものが生じた。ところがこの考え方が、後の宗教と科学の明確な分離、或いは相いれない深刻な対立を生むようになった萌芽になってしまったと私は考えている。宗教と科学は全くの別世界、別次元の全く相いれることのできない、ある神学者の言葉を借りれば、ユークリッド幾何学的平衡、二本の線は決して交わることない結果を生む歴史的きっかけになってしまったと私は考えている。
これに対して、アリストテレスの影響を受けたスコラ学のキリスト教神学者トマス・アクィナスは、このような考え方に真っ向から反対し、キリスト教「信仰」とギリシャ哲学的「理性」を調和させた。トマスの主張は、「自然の光(理性)」によって、理性は神の属性を理解するものであるが、ところが理性には人間的限界があるため、神の啓示や聖霊の導き(「恩寵の光」)を通じて、理性では到達できない真理に至るというものだ。「哲学は神学の婢(はしため)」と神学を全ての学問の上位に置いた。
上述の内容は中世の普遍論争がその後に台頭するオッカム等に代表される唯名論が、啓蒙思想等にも繋がり、やがて唯物思想等が生じる萌芽になったと感じている。原理の入門書である原理講論では、ローマがキリスト教化されたた後、キリスト教国家が生まれてゆく過程で、聖アウグスティヌスらに代表される教父達によって、次第にキリスト教が整備されてゆく。特に聖アウグスティヌスが著した「神国論」は後に、これに影響を受けたチャールズ大帝によって、実質キリスト王国(チャールズ大帝の時からのフランク王国)として出現されるこの時代が終末だったと言っている。
お父様のみ言によれば(詳細は割愛する)、この時代(スコラ学やトマス・アクィナスが登場した前後紀元800年~)はちょうど約2000年前に(この時代以前約2000年前)、イスラエル民族が統一国家として初めて神様が、アブラハム、モーセに約束された国を建国した時代と、同時性(歴史には、ある数理性で繰り返す法則性があり、これを神様の摂理とする歴史観の中で使われている概念)であると語られた。歴史を俯瞰(ふかん)して観たこの現象がどういうものかと言えば、2000年前イスラエル民族を中心にして出来なかったメシヤ的王国を、簡単に説明すれば、本来成さなければならなかったことが出来なかったので(この出来なかった一義的な目的は「メシヤの降臨」であり、「御国」の建国である。)、もう一度同じ目的を成就するために、時と場所、人物(時間と空間と人間)を異にしながら繰り返されたものである。この観点から観れば、2000年前のサウル、ダビデ、ソロモン王によるイスラエル統一王国と、チャールズ大帝によるフランク王国にはメシヤ降臨によって神様が顕現される、正に「メシヤ的王国」が成される時だったと観ることができる。がしかし、2000年前のイスラエルが王様自体がそうであったように、中世キリスト教も教会が腐敗し、イエス・キリストと心身一体化しなければならなかった、本来的忠実な僕にならなければならなかった、中心的立場の人物たちが、教会組織を隠れ蓑しながら不信仰から来る腐敗と堕落、偶像崇拝によって神様の摂理は延長されることになってゆく。
ここで少し知らない方もおられるのでふれておきたいのが、トマス・アクィナスである。彼がキリスト教神学に与えた影響は計り知れないほど大きい。その中でも「良心」に関しての彼の考えが強く影響を及ぼしている。1962年~1965年に渡って開かれた第二バチカン会議において、「カトリック教会の良心」の規定を行っているが、この良心規定において強く影響を与えたのが、トマスの『神学大全』の良心論である。カトリック教会における「良心」と言えば第二バチカン会議において宣言された良心規定である。関心のある方は調べてみていただければと思うが、お父様の解かれた「良心」に関するみ言がどれほど偉大なのかが良く理解できると思う。
カトリック教会繋がりでお伝えしたいのは、訪台時、二代王様に直接み言を賜ることができた。その中でもアメリカにおける伝道の困難さを話されていた。アメリカはご案内の通り、キリスト教においては、プロテスタンが主流を占めており、その彼らが、統一教会を見たときには、初見ではとてもカトリック的な雰囲気(儀式等)を感じられる(プロテスタント信仰の方々の見解)という話をされておられた。
昨年大統領選を勝利されたトランプ大統領を支えている勢力は二つあり、一つは伝統的なアメリカの建国精神に基づき、神様による御国の建国を目指すMAGAと、もう一つはテクノ・リバタリアンと私は観ている。このテクノ・リバタリアン(テックリバタリアン)の中心人物がピーター・ティール氏である。彼はバンス副大統領(カトリックに改宗した敬虔なカトリック信徒)やイーロンマスク氏(信仰は不明だが真言宗に傾倒)のメンターとしても有名だが、思想家でもありシリコンバレーで最も注目されている投資家でもある。私が注目しているのは彼はクリスチャンで、伝道師でもあるということだ。「信仰とテクノロジー」を合体させた布教は、正統的キリスト教から見れば異端的と思われているが、彼は本気だ。Youtubeの議論の中では「彼こそが反キリストではないだろうか」と言われていたが、彼の顔は動揺していた。彼が目指している社会と政治は、極端な言葉で表現すれば”ゴミは消えろ”ということである。社会と政治の中に入り込んだ、歪んだ心を持ったグローバルパワーエリート達を排除し、AIに置き換えようと考えている。
ピーター・ティール氏らが目指すキリスト教的理想とキリスト教的理想をテックと癒合させる新しい運動の中核的テクノロジーがAIである。AIのベースは数学であり、自然界、物質世界、物理世界の全てを数学は形式的に概念化出来るが(心と相互作用しない、心に響かない、ただ単純に概念を二次元的に抽象的に文字化しシンボル化する等)、必ず不完全性定理的状況がつくられる。人間がAIに依存すればするほど、真偽不明の善悪の境界線が欠落した、偶像が蔓延する世界(お父様の語られる天宙的世界観から観れば、「縦的」世界が欠落した世界)になるだろうと推論している。何故かと言えば、私たちはもう既に万物の中に埋め込まれた状態であり、万物化(物質化)された、物と人の境界が全く分からなくなってしまった、万物を主体として仰ぎ見てしまい、万物の僕のような、万物と一体化してしまっている堕落人間だからであるとお父様は語られている。それを身近で実感させられるのは「家庭連合騒動」だ。
AI(AGI)は大変賢く恐怖をおぼえる事象がある。一例をご紹介すれば、ある医者が(日本の事例ではないが、実名は伏せる)深刻な問題を抱えている患者の治療方針を決めかねている時、AIに尋ねたという。ところがAIが出した回答は「自死をすすめなさい」というものだった。このAIからの回答は、実に思慮深く、その回答は深く細部にわたって練られた、或る意味、誰もが納得する回答だったそうである。それは、単純な医学や医療の知識だけではなく、宗教的で哲学的な領域までの知識が加味された、人間というものを知性的に知り尽くした回答だったそうである。なぜそのように感じたかといえば、そのAIは、医者と患者の人間性まで加味した、この二人の出会いならば、この選択しかないというものだったからだと述べていた。
私は以前からヨハネの黙示録の預言は、世界を覆い隠していたものが剝がされ、あからさまになる時代の到来を告げるものとして、2000年前、パトモスにおいてイエス・キリストがヨハネの前に現れ、再臨に至るまでに起こることや、再臨のメシヤによって証された真実と、起こるであろう出来事の枠組み、構造を伝え、更にそれ以降の世界についても証しされている、人類にとって無くてはならない書物であると、不足ではあるがお伝えしてきた。お父様を排撃し、み言を書き換えている家庭連合が行っている行為は、神様のご計画全てを破壊する行為であると言わざる負えない。
神様をどう解釈するかを人類は長い間行ってきたが、「解釈する」という行為は、人間が理解しやすいように、人間に寄せて見る行為と私は考えている。もし、真理があったとすれば、真理に人間が寄って、真理に人間が合わせることによって、神様が分かる。これは解釈ではなく理解である。前出のトマスの「信仰と理性」の議論に引き付けてえば、真理と解釈の合意点を理性的に探し、更にこの合意点を努力によって僅かづづだが真理に近づけ、真理を絶対としながら、真理に合わせて自らを高めてゆく行為こそが人生であるとお父様によって意義付けされたのが、絶対信仰、絶対愛、絶対服従である。これを悪用しているのが家庭連合である。私が真理性を見極める判断の基準に置くべきだと考えているのは、神様の属性の一部には、「絶対」「唯一」「永遠」「普遍」「不変」等があるが、神様に由来する真理にも当然「絶対性」「唯一性」「永遠性」「普遍性」「不変性」等がなければならず、真理か否かを判断する上での重要な基準点でもあると考えている。
私はお父様に出会えたことは奇跡だと思っている。何故そう思えるかと言えば、その一つは、お父様に出会わなければイエス・キリストの存在意義、イエス・キリストの本当の価値や、降臨の目的が何であったかが分からなかったからである。そのような意味で、お父様を知ることによって、イエス・キリストの本当の存在の意味や、イエス・キリストがなさろうとされた「救い」の本質を知ることができたからである。
私が何故このようなことを申し上げるかと言えば、韓鶴子氏の説にはこのようなイエス・キリストを理解するための真理条件にあてはまるものは何一つない。自分たちの都合に合わせてお父様の真理(み言)を修正上書きし書き換えている。都合の悪いことは隠し、自分たちの都合に合わせてどんどんお父様のみ言の定義を換え変化させていっているので、韓鶴子氏の支持のもと、家庭連合から出てくるお話に一貫性は無く、お話の末端においては一見すると合理性があるような錯覚に陥ってしまうが、隠している部分をあからさまにし、全体として俯瞰して見ると矛盾が生じて、合成の誤謬が生じてしまっている。まるで以下のような物語になってしまう。「母をたずねて三千里」心と体の主管性転倒型ヴァージョンである。
私は以前から、お父様のご聖和以降、二代王様の「沈黙を破って」発表によって明らかにされた、家庭連合(旧統一教会)が組織ぐるみで行ってきた隠蔽と、韓鶴子氏によるお父様を排撃する主張を隠し、明確なダブルスタンダードの境界線が引かれているにもかかわらず、お父様のみ言の構造に当てはめられている正しいパラメーターを書き換え、定義を換え悪用し、誰も受け入れないような矛盾だらけの、全くの出鱈目な、聖書に根拠を置いときながら、聖書との整合性が全く無い主張を展開し、お父様のみ言と、聖書的概念とキリストを悪用し、お父様と韓鶴子氏は一体化していないにも関わらず隠し、一つになっていることを演出し冒涜していると主張してきた。
上述の、「お父様のみ言の構造に当てはめられている正しいパラメーターを書き換え」の「構造」には、前出でも説明したが、神様の属性に由来する、普遍性とフラクタル性がある。簡単な一例を挙げれば、聖書全般に渡って語られている、王様、救い主、メシヤ、キリスト等の概念は、聖書を共通の経典としていたとしても、教派によってその解釈には違いがあるが、しかし総じて共通していることは、神様が地上に向けて送ろうと約束されているそれらの人物は、「御国」の重要な要としての役割を託された人物であるという理解だ。このような神様がなさるみ旨(み意、御理想)全体の構造(お父様によって明らかにされた)に、韓鶴子氏と家庭連合全体の罪深さは、聖書には全く存在しない概念や定義(韓鶴子由来の独生女無原罪論等)を挿入し、本来の意味を全く違うものに書き換えてしまったことである。例えば、三代に渡って繋がれてきた”独身女性”によってもたらせられたとする「血統転換」理論には、何ら聖書的根拠と原理的合理性は全く無い。そもそも人類は未だ※2「血統」の深い意味を経験的にも実証的にも理解していない。又、「原罪」とは何か、「血統的罪」とはなにか、「血統」とは何かが分からない立場で、お父様には「原罪」があったと主張し、お父様はメシヤではなく堕落人間としての位置付けを公なアメリカ政府の公的機関において決定した2019年の法廷証言は、結果的に、聖書66巻の最終巻の「ヨハネの黙示録」メシヤ降臨の預言まで覆いをかぶさせた韓鶴子氏は、1996年にお父様が語られた以下のみ言を、精察されたかが疑わしいと私は感じている。
「救援摂理史の原理観」1996年4月16日ワシントン・タイムズ財団創立大会 ワシントンDC
再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するためにこられます。すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するためにこられます。彼は既にイエスの時まで神側が勝利した根本摂理の土台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に真っすぐに立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。
原理講論によれば、再臨摂理は「復帰摂理延長時代」と定義されている。原理や摂理の基礎的知識や理解があれば、お父様に「原罪」があるなどという結論は出るはずもなく、原理的合理性の全くない話である。復帰摂理延長時代とは、イエス・キリストのご聖誕は、それまでのイスラエル民族(イスラエルはヤコブが天使とたたかって勝利し与えられた名称なので、ここではイスラエルに限定する。)が、アブラハムの家庭からメシヤを迎えるための縦的な蕩減条件が成された基台の上でのものなので、お父様の背景(再臨までの歴史的な蕩減復帰という意味)は、イエス・キリストのご聖誕(繰り返し申し上げるが、イエス・キリストのご聖誕は、人類が「メシヤのための基台」を蕩減復帰した基台があってのご聖誕となるので、この蕩減条件は、イエス・キリストご自身が立てるものではない。)を経て、公生涯を出発される時までと、更に実体的国家的背景(ここで言う背景は第一次、第二次世界大戦を経てつくられる)の上に、イエス・キリストからメシヤの位置を連結相続された上で、メシヤの自覚を持って※3個性完成基準を自ら主体的に立て、公生涯を出発されているということが、上記の1996年4月16日ワシントン・タイムズ財団創立大会で語られた「救援摂理史の原理観」の末文で語られたみ言から理解することができる。お父様のご生涯は、このような真理と実践に裏打ちされた、これら全体が分かった上での極めて主体的な人類救済のご路程だったことが分かる。当然であるが、お父様と共に神様が何時もおられたということを、真摯にお父様の御生涯と向き合えば身体感覚で理解できると私は考えている。
原理講論【第17版改訂】後編第三章摂理歴史の各時代とその年数の形成第一節摂理的同時性の時代P437~P438
それでは、摂理的同時性の時代は、どうして生ずるのだろうか。復帰摂理の目的を成し遂げていく過程においてなされたすべての事実が、歴史を形成してきたということをよく知っている。けれども、復帰摂理の目的を達成するために、「メシヤのための基台」を復帰する摂理路程を担当していた或る中心人物が、自分の責任分担を果たさなかった時には、その中心人物を中心とした摂理の一時代は終わってしまうのである。しかし、そのみ旨に対する神の予定は絶対的であるので(前編第六章)、神は他の人物をその代わりに立たせ、「メシヤのための基台」を蕩減復帰するための新しい時代を、再び摂理なさるのである。従って、この新しい時代は、その前の時代の歴史路程を蕩減復帰する時代となるので、再び、同じ路程の歴史を反復するようになり、摂理的な同時性の時代が形成されるのである。
しかるに、復帰摂理を担当した人物たちは、その前の時代の縦的な蕩減条件を、横的に一時に蕩減復帰しなければならないので、復帰摂理が延長され、縦的な蕩減条件が付加されるにつれて、横的に立てられるべき蕩減条件も、次第に加重されるのである。従って、同時性の時代も、漸次、その内容と範囲を異にするようになる。同時性の時代の形態が、完全な相似形をつくることができない理由は、ここにあるのである。
お父様が語られた「情」から見た聖書の「血」と「地」の神学的私的考察
私は韓国天安の鮮文大学に、お父様のみ言を学ぶため留学したが、その目的は「情」と「血統」に関しての深い意味と、神学的な説明(理解と言語化)が出来ることにあったが、十分にその目的を果たすことができなかった。今はお父様のみ言の深い意味の理解と、神学的な説明を土台とした哲学的アプローチで、説明ができればと考えている。
「새로운 가정을 만들자」からの抜粋「情」とは
- 무엇이 주고받을 수 있게 하느냐?
- 돈도 안 되고, 먹는 것도 안 되고, 지식도 안 되고,
- 사랑만이, 정(情)만이! 정,해봐요.
- 정! 사랑 가지고 안 돼요.
- 사랑보다도 뼛골에서부터 흘러나오는 그리움이 변함없게 될 때 그것을 정(情)이라고 해요.
- 정만이 주고받게 할 수 있는거예요.
上述したお父様のみ言は、以前私のブログでも紹介したしたが、2007年9月27日ニューヨークイーストガーデン安侍日に語られた「새로운 가정을 만들자」からの抜粋である。これはとても言語化(説明)しずらい人類歴史どこを見ても存在しない「情とは何か」の深い概念について語られたものであると推論している。
「뼛골」は韓国語の「骨髄」であり、骨髄は血液をつくる人体の部位である。また、深い精神的世界などを表す時に(뼛골이 빠지다とは、「精魂尽き果てる」という意味に使われている。)使われているようだ。ではお父様は何故この語彙と表現を使われたのだろうか?私は、お父様は、上述したみ言で使われている、「骨髄」という言葉を心の奥深いところに至る言葉として使われていると推論している。
そこでまず旧約聖書にあるAdamという言葉は、ヘブライ語で「地面」を意味するadamah(アダーマー)という語の男性形である。ヘブライ語「אדם(アダム)」の名の由来は「אדמה(土)」だが、右から読むヘブライ語としての末尾には語根の「דם(血)」が位置する。
創世記9章6節
創世記37章22節
その上で考察したのが、聖書には旧約、新約に渡って「血」という記述が多数存在するのは何故かということである。そこで示されている「血」の表記は、形式的に生物が流す生理的現象ではなく、神様は「血」を祭壇に供えるというということを示されている。例えばざっくりと「血」が記述されている箇所を挙げて見た。
旧約聖書【新改訳2017】
- 創世記4章10節:主は言われた。「いったい、あなたは何んということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地から私に向かって叫んでいる。
- レビ記1章5節:その若い牛は種の前で屠(ほふ)り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。
- レビ記1章11節:それを祭壇の北側で、主の前に屠り、祭司であるアロンの子らが、その血を祭壇の側面に振りかける。
- レビ記3章13節:そして、ささげ物の頭に手を置き、それを会見の天幕の前で屠る。アロンの子らは、その血を祭壇の側面に振りかける。
- レビ記4章5節:その油を注がれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入る。
- レビ記4章6節:その祭司は指を地に浸し、主の前で、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。
- レビ記4章18節:そして、その血を会見の天幕の中にある主の前の祭壇の四隅の角に塗る。また、その血はすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。
- 今回都合上レビ記記述は上記以外割愛する。
- 詩編51章14節神よ 私の救いの神よ 血の罪から私を救い出してください。私の舌は なたの義を高らかに歌います。
- イザヤ書63章3節:「わたしはひとりでぶどうを踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。
新約聖書【新改訳2017】
- マタイの福音書23章30節:こう言う。「もし私たちが先祖の時代に生きていたら、彼らの仲間になって預言者たちの血を流すということはなかっただろう。」
- エペソ人への手紙1章7節このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
- エペソ人への手紙2章13節しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
- ローマ人への手紙3章25節神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。
- へブル人への手紙9章14節まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神027に仕える者にすることでしょうか。
- へブル人への手紙10章19節こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
- ヨハネの黙示録7章14節そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。
- ヨハネの黙示録12章11節兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに 竜に打ち勝った。 彼らは死に至るまでも 自分のいのちを惜しまなかった。
イエスの血潮12の宣言
- 一、イエス様の血潮はサタンの支配から私を贖いました。(エペソ1:7)(コロサイ1:13~14)
- 二、イエス様の血潮は全ての呪いから私を贖いました。(ガラテヤ3:13)
- 三、イエス様の血潮は私のために永遠の契約を成し遂げて下さいました。(ヘブル13:20)
- 四、イエス様の血潮は私を父なる神、すべての人々、すべての被造物と和解させ、平安を下さいました。(エペソ2:13~16)(コロサイ1:20)
- 五、イエス様の血潮は私のすべての罪を赦してくださいました。(エペソ1:7)
- 六、イエス様の血潮はすべての罪から私をきよめます。(1ヨハネ1:7)
- 七、イエス様の血潮は罪に定める全てのことから私を弁護し、私に敵対するサタンの訴えを無効化し、今まで一度も罪を犯さなかったかのように私を義と認められます。(ローマ3:24)
- 八、イエス様の血潮は主のものとするために私をきよめ、主に献身する者として私を聖別します。(1ペテロ1:2)
- 九、イエス様の血潮は死んだ行いから私の良心をきよめ、生ける神に仕えることができるようにされました。(ヘブル9:14)
- 十、イエス様の血潮は聖なる神に仕えるために、私をまことの聖所に入らせます。(ヘブル10:19)
- 十一、イエス様の血潮は私がサタンとその全ての力に打ち勝つようにさせます。(黙示録12:11)
- 十二、イエス様の血潮は私の永遠に続く喜びの源です。(黙示録7:14, 17)
ご案内の通り、旧約聖書レビ記は神様が直接最も時間をかけて「そなえもの」に関しての諸規定を祭司に向けて神様が伝えている書物である。そのレビ記には不思議にも沢山の「血」の記述があるが、これはただ単に、形式的に祭司の所作や作法といった儀式的な行いを定めただけではなく、もっと深い意味がある。しかし、レビ記の記述には表象的な振る舞いとして、この時代の霊的知的な限界的な階層性からの表現にならざる負えなかったと私は考えている。更にキリスト教では、「私たちクリスチャンは、イエスの血潮によって救われた」と宣言している。
上述したように、クリスチャン達がイエス・キリストの血潮によって私の罪を贖われてきた身体感覚や実感等を通して、更に、お父様がみ言で語られた「情」に繋げてみれば、聖書全体全般に渡って記述されている「血」の深部の意味こそが、「救い」、「罪」、「原罪」の「贖い」に関係する、「情(心情)」と「愛」を比喩的に表した聖書の記述であると推論できる。
※2祝福家庭と理想天国(1)第三章祝福の意義と価値第一節新生の根本原理(1)メシヤが必要な理由P683
この地上のキリスト教徒たちは、主が来られるようになれば原罪を脱ぐのだと言いますが、原罪を脱ぐとはどういうことでしょうか。それは、サタンの侵犯を受けない心情的血統の回復を意味します。最後の最後まで残るものが、これです。
血統が違うということは、父親が違うということです。父親の異なった血統をもって生まれた人間は、本来堕落していない本然の父母によらなければ、罪を蕩減することはできません。分かりますか。それゆえに、今日まで歴史は、堕落していない始祖となることができる権利をもった、そのお一人が来られる時まで、宗教の理念を中心として連結させてきました。
※2祝福家庭と理想天国(1)第三章祝福の意義と価値第一節新生の根本原理(1)血統転換の意味P691
今まで、イエス様を信じるというのは、何を意味しますか。イエス様は男性として、堕落しなかった本来のアダムなのです。結局は肉的な父であり、霊的な父であられます。それゆえ、この父と一つにならなければ、再び生まれる道は全くありません。そのためキリスト教は、人間達をして、イエス様の骨髄にまで入っていったという、イエス様を渇望するように慕い、イエス様の愛情と触れ合う、そのような体恤させるただ一つの教えとして、イエス様を新郎として慕い迎え入れなさいといったのです。つまり、イエス様を新郎として迎え入れなさいと教えることは、二つの意味をもっています。一つは、その骨肉に入る子供の種になりなさいということであり、もう一つは、お母さんの腹を通過したという条件も得なさいということですが、これがまさに、新婦の立場です。
お父様は、「原理講論」第三章人類歴史の終末論にもあるように、歴史全体が神様による人類救済歴史であり、堕落した人類を救うための復帰摂理歴史であると語られている。では歴史全体全般が神様が人間を「救う」ための摂理が、神様によって成された結果であるならば、同じく「原理講論」にはこのような記述がある。
「神は人間をどの程度まで救わなければならないのであろうか。いうまでもなく、その救いは完全な救いでなければならないので、神はどこまでもこの罪悪の世界から、サタンの悪の勢力を完全に追放し(使徒二十六・18)それによって、まず、人間始祖の堕落以前の立場にまで復帰なさり、その上に善の創造目的を完成して、神が直接主管されるところまで(使徒三・21)救いの摂理をなしてゆかなければならないのである。」とあるように、神様の救いは「完全」な救いであると書いてある。では「完全」とは、神様が「完全」であると言える状態とはどのような状態になるのだろうか。
「メシヤとは、堕落した後につくられた堕落体系(堕落後につくられた信念体系)外から来た存在」の章でもご紹介したが、お父様は、1996年8月1日世界平和家庭連合創設会議 閉会晩餐会で語られた「宇宙の根本を探して」の中に、「神様も相対が必要なのです。相対の必要性をここに見出すことができるのです。男性でも女性でも、独りののときは愛を感じることはできませんが、男性の前に女性が現れ、女性の前に男性が現れるときには、相対的に刺激的な愛と血統が雷と稲妻のように衝撃をもたらして問題を引き起こすこということを知らなければなりません。」という記述があるが、これは神様と人間の関係と人間と人間(特に夫婦の関係)が愛の関係であり、愛とは必ず相対(相手、対象)を必要としており、決して単独では成立しないという、神様の本体(根源)でもある「情」について説明しているものである。「情」が相対に向けられたものを「愛」と呼ぶということである。
神様の心情を地上に連結される方こそがメシヤであり、お一人だ(イエス・キリストとお父様は、肉体としては別人格だが、お二人とも神様が人類の救いのため送った、神様と父子の関係にある存在という意味で一体であり、複合的に一人という意味)。創世記に記述されている「血」「土地」こそがアダムであり、その「アダムのあばら骨から創られたのがエバ」(創世記2章21節)という概念である。これをキリスト教聖書解釈学では、ヘブル語言語での、アダムとエバは一対、一体の複合的な位置と解釈される単語が使われていると言っている。唯一(singular)ではない単体を表す「一」が使われている。これは「男」と「女」は、唯一無二の特別な関係であり、二人だけれど一人のような複合的な位置として捉えている。この聖書解釈は、お父様が原理原本の第一章で語られている「先有」の概念にも整合性がある解釈と私は理解している。
この理解の内容を前提に置けば、夫婦間の親密度intimacyの度合いは、肉体ではなく、情をベースにしていることが分かる。そこから生じたのが「愛」「生命」「血統」であり、「絶対性」であり「絶対生殖器」である。そこから家庭盟宣(かていめんせい)一番の本質と、お父様の天国の意味を深く理解できると私は考えている。
家庭盟宣(かていめんせい)一番
- 일. 천일국 주인 우리 가정은 참사랑을 중심하고 본향땅을 찾아 본연의 창조이상인 지상천국과 천상천국을 창건할 것을 맹세하나이다.
- 一、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します。
韓鶴子氏のメシヤ観は、お父様が解明された「罪観」、「原罪観」を土台としているものであることは明らかであり、韓鶴子氏が語られるお話の背景にあるのは、お父様が解明されたみ言(真理)の※4構造(骨格)が土台となっていることは間違い無いと私は理解している。ところが、後に説明するが、2019年の裁判証言では、「ということはあなたが※3(この注釈は以下で示す法廷証言原文でのもの)文牧師に最初に会った11歳の時に完全に統一神学を理解していたのか?」という質問に対し、「そうだ。私は完全にそれを理解していたと言わざるを得ないだろう。」と韓鶴子氏は証言している。(下記法廷証言記録を文字おこししたものを掲載。この部分は⑥を言っている)ということは、私が⑥の項目で指摘しているように、神様の救いの摂理は、二重の摂理が存在したことになる。神様が成される摂理に二重性が存在すれば、そこからは、真理性や真実性は生まれてはこない。何故ならば、救いの摂理は創造原理を持って成されるので、もし仮に神様のなさられる摂理に二重性があったとするならば、二重摂理を生み出した原因となっているもっと根本の摂理、或いはもっと根本の創造の原理があるはずであるという議論が生じてしまう。更には、そもそも創造の神は、多神であったのではという議論さえ生じさせてしまうのではないだろうか。私はその可能性は大きいと観ている。ではそれは何故かと言えば、将来必ず「お父様は本当にメシヤだったのか?」というあらゆる側面からの研究や議論が必ず生ずるからだ。その時、お父様に最も近い立場にあったメシヤの妻が、法廷証言⑥のように神様の前で聖書に手を置き宣誓供述した上で証言した事実を、私達の未来を担う後孫達はどのように受け止めるだろうか。
もしそうなれば、お父様の存在は歴史から消え去りかねない。そうなれば、イエス・キリストの真実も消え去る。人類は神様に繋がる道を永遠に封印されてしまう。その責任を一体誰が負うのだろうか、あなたたちが負えないとすれば、いったい誰が負うというのだろうか。
※2内田 樹著「寝ながら学べる構造主義 」文春新書からの抜粋
- 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が、わたしたちのものの見方、考え方、感じ方を基本的なところで決定している。
- だから私たちは、自分が思っているほど自由に、あるいは、主体的にものを見ているわけではない。
- 私たちは、自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものであるという事実を、徹底的に掘り下げたことが、構造主義という方法の功績なのです。
韓鶴子氏を無原罪誕生と、メシヤ格の位相があると信じている方々にお伝えしたいのは、私が上述したことの意味を深く理解して頂きたいということである。あなた方が精誠と称して行って来た、天に宝を積む信仰は、この問題を放置すれば、あなたたちが神様とお父様に捧げたすべてが、あなた達の後孫達によって、すべて破壊されてしまうということである。更に、神様はこのことを黙って放置されるとは到底考えられないと私は強く感じている。
原理の入門書である原理講論には、メシヤ降臨前の準備期間が、初臨と再臨それぞれ降臨前400年前からあったことが書かれている。その準備とは、霊界と肉界、形而上と形而下、宗教と科学それぞれににおいて、やがて来られるメシヤによってもたらせられる真理を、恰も補完する宗教の教えであったり、哲学や思想、科学や科学技術等が、暫時地から湧き上がるように現れてくると書かれている。これらのことを私(原理を知らない一般の方々)たちは、発展のプロセスや発達のプロセスという概念を方便として言語化し認識しているが、では何故このようなプロセスが生じるのかという問いがなされたならば誰も答えられない。この問題は、人類が未だメシヤ降臨を目的とした歴史観を持ってはいないことに起因していると言わざる負えない。
ここからは私の個人的推論ではあるが、韓鶴子氏が主張されるメシヤ観(キリスト教ではメシヤを救い主とも言い換えられ、物理的救いのみばかりではなく、サタンに霊的に捕らわれの身になっている人類を罪から救い出す人物としている)の土台になっている「罪観」や「原罪観」が、未だ人類が持ち得ていない、お父様によって下賜された「血統的罪」からの救済であるとするならば、更に法廷証言の中での主張が如くに、お父様から賜ったものでないとするならば、上述した原理講論に書かれてある、メシヤ降臨前400年前から準備された、一般的にも共通理解されている発展、発達プロセスの中の、どのキリスト教会の、どのキリスト教神学の、どの文化の中に、、韓鶴子氏に繋がるものがあるというのだろうか。哲学や思想の中や、科学や科学技術の中に貴方が主張されているようなメシヤ観が形成された歴史的痕跡がどこにあるというのだろうか。
因みに冒頭引用した、トマスの「神学大全」の日本語訳に携わった稲垣良典先生のご著書からの抜粋をご紹介したが、「神学大全」完訳(創文社による全巻全45巻・全39冊)まで52年を要している。家庭連合は、お父様ご聖和後瞬間一体何をしたのだろうか。み言も、その意味も何もわからずに、なんてことをしたのだろうか。
その上で以下に、上記2019年3月25日ペンシルベニア州中部地区連邦裁判所で、米国家庭連合が、統一マークの使用を阻止する目的で、サンクチュアリ教会に対して、訴えを起こした裁判でのデポジションdeposition(公開された法廷で行われるトライアルに先立ち、事実関係を知る可能性がある個人から証言をとる手続)に於いて、録取された韓鶴子氏の証言の一部を整理し掲載した。
上述した韓鶴子氏法廷証言の重さは、当然宣誓供述なので、米国のペンシルバニア州の法律は良く分からないが、日本では虚偽の証言は民事刑事問わず、当然刑事罰を受ける。その上での証言なのでかなり真実性は高いと考えられる。尚、以下の指摘に関しては、2022年9月20日の私のブログ、「韓鶴子パラドックス後編God Save The King」で取り上げているので、関心のある方は以下のリンクをクリックし見ていただきたい。
法廷でのインタビュー表記(誰が質問し、誰が答えたのか)は、「Q」はサンクチュアリ側の弁護士の言葉、「A」は韓鶴子氏の答弁です。今回当ブログでは、基本サンクチュアリ側の弁護士の質問に対して、韓鶴子氏の答弁の一部のみを掲載している。
ポイント①お父様は原罪を持って生れた。
Q.文牧師は原罪を持って生まれたのか、原罪を持たずに生まれたのか?
Was Reverend Moon born with original sin or without original sin?
A(韓女史:法廷通訳)
お父様の血統を見てみればお父様にはお兄さんをはじめとして、たくさんの兄弟姉妹がいました。兄弟姉妹は多くいましたが、一人の親でした。ですから、私は彼の兄弟姉妹は原罪なく生まれたとは私は言えません。あなたはそこから推論できるはずです。
If you look at your father’s lineage, he had one older brother and he had a lot of younger siblings. There was one parent, although he had a lot of siblings, and I cannot say his siblings were born without original sin. So you can deduct from that.
ポイント②お父様は私に会って真の父母になれた。
Q あなたは答えていないです。私はあなたが私が私自身の結論を下すべきだと言ったように聞きました。しかしながらあなたが先ほど話されたのですが、あなたはあなたの教会で最高の宗教的権威であるというのなら、私はあなたに聞きたい。あなたの教会で最高の宗教的権威として、あなたの神学では、文牧師は原罪を持って生まれたのかどうか私に教えてください。
You did not, respectfully. I heard you telling me I should draw my own conclusions. But as you told me, you are the highest religious authority in your church, and I’m asking you, as that highest religious authority in your church, to tell me whether, in your theology, the Reverend Moon was born with original sin.
A(韓女史:法廷通訳)
A 文牧師は私に会ってはじめて真の父母になることができたのです。
Reverend Moon was able to become the True Parent only because he met me.
A 文牧師は独生女である私に会ったので、真の父母の位置にまで上がることが出来たのです。
because Reverend Moon met me, the only begotten daughter, he could ascend to the position of True Parents.
A 神様が文牧師に北朝鮮に行くように頼んだとき、北朝鮮は当時まだ共産党の支配下にありました。ですから彼の命は危険にさらされ、死ぬしかないかもしれない位置だったのです。これはイエス様のミッションを守っていくためには、文牧師は蕩減しなければならない何かがあったからです。
When God asked Reverend Moon to go to North Korea,” North Korea was still under Communist rule at that time, and this was a position where his life would be at risk or a position where he could only die. This is because upholding Jesus’ mission, there was something for Reverend Moon to indemnify.
A 私に会うプロセスにおいて、文牧師が私に会うまでは、私たちは彼が原罪が無かったとは言えない。支払わなければならない蕩減条件があった。
In the process to meet me, until the Reverend Moon met me, we cannot say that he did not have original sin. There was indemnity conditions to be paid.
ポイント③私(韓鶴子氏)は無原罪で生まれた。
A 私は原罪なしで生まれたから、私は独生女である。だからこそ神様は私を救った。
Because I was born without the original sin, that’s why I am the only begotten daughter. That’s why God saved me.
ポイント④お父様は原罪有りで生まれ、私(韓鶴子氏)に出会い「独り子」へ変わる(お父様罪在り→無しへ、お父様ハイブリット論?)
Q.私は文牧師もひとり子だと思っていたが。
But I thought Reverend Moon was also the only begotten son.
A 16才の時に文牧師はイエス様に会って、イエス様から使命を引き受けた。その時がひとり子としての資格を得た時であった。16歳の時から文牧師はイエス様が完成する必要のあった道を歩んだ。したがって、文牧師には支払わなければならない蕩減条件があった。しかしながら、1963年に(原文ママ)、聖婚式で、私に会うことによって、彼はひとり子の位置に上がった。
At the age of 16, when Reverend Moon met Jesus and he received the mission from Jesus, was when he had the qualification as only begotten son. And from the age of 16, Reverend Moon had walked the path that Jesus needed to complete and, therefore, Reverend Moon fulfilled — had conditions of indemnity to pay. However, in 1963, the holy wedding, by meeting me, then he ascended to the position of only begotten son.
ポイント⑤私は独自に真理を解明し、お父様と出会う以前から、神様の摂理全てを知っていた。
Q 正しくないわけですね。了解しました。では文牧師はあなたに統一神学について教育しなければなりませんでしたか?
It’s incorrect. Okay. Did the Reverend Moon have to educate you on Unification Church theology?
A(韓女史:法廷通訳)
いいえ、彼は私を教育しなかった。(私は)独生女である。私は天を理解し、創造主である父を知っており、天の摂理を知っています。私は既にその教えを前から知っていました。私は文牧師が教えた教えを既に知っていました。
No, he did not educate me.
Only begotten daughter. I understand the heavenly — and the creator father and the heavenly providence. I already knew the teachings before. I already knew the teachings that Reverend Moon teaches.
A 独生女として、私は既に天の父母様の摂理をしっており天の摂理を知っている。だから真の父母の使命を知っている。文牧師が彼の神学を教える前に、私は既にそれを知っていた。
As the only begotten daughter, I already know heavenly parents providence, I know heavens providence, and I know The Mission of True Parents. And before Reverend Moon taught his theology, I already knew it.
ポイント⑥神様の真理解明における二重摂理論。
Q.ということはあなたが※3文牧師に最初に会った11歳の時に完全に統一神学を理解していたのか?
So did you understand the Unification theology perfectly at age 11 when you first met Reverend Moon?
A(韓女史:家庭連合通訳チェックSUH氏の通訳)
そうだ。私は完全にそれを理解していたと言わざるを得ないだろう。17歳の時に私は私がいなかったら誰も神様の夢を実現することができないという堅い決意をした。だから17歳で私は40歳の男性と結婚しようと決意したのだ。考えてみてください。そんなこと可能だと思いますか?
I can say that I knew it perfectly because at the age of 17, I made a firm resolve that if it were not for me, no one else could realize God’s dream. That is why at the age of 17 I decided to marry a 40-year-old man. Think about it. Is that possible?
(※3註:上記やりとりの年齢について。質問者は韓女史が大母様に連れられて初めてお父様に出会った11歳当時について質問していますが、韓女史は聖婚された17歳当時のことについて答えています。)
A(韓女史:家庭連合通訳チェックSUH氏の通訳)
独り子のミッション(使命)とはイエス様がその生涯で広めることが出来なかったみ言を見つけ出すことでした。したがって、お父様が独り子としての位置を見つけ出すためには、彼はみ言葉を探し出す必要がありました。これがお父様が解放されてすぐに、プサンに渡って、み言葉を見つけ出してみ言葉を書いた理由です。そのような基盤の上に、お父様は独り子としての資格を得て、独生女に会うことができるようになったのです。
So the mission of the only begotten son was to find the word which Jesus was not able to promulgate in his lifetime. Therefore, in order for father to find the status as the only begotten son, he needed to find the word which is why following his liberation father went to Pusan where he wrote — he found and he wrote down the word, and on that foundation father had the qualification as the only begotten son to meet the only begotten daughter.
家庭連合(旧統一教会)とペンローズの三角形
家庭連合(旧統一教会)の主張を聞けば聞くほど頭に浮かぶのが、「ペンローズの三角形」である。これは二次元に描かれた実現不可能な図形である。ありえない錯覚図形であり、マウリッツ・エッシャーの騙し絵にも繋がる、「不可能性の最も純粋な形」として、ペンローズ親子が広めたものである。この背景には人間の目の錯覚(錯視)があり、日常的に建築物のデザインや、スーパー等に陳列してある商品が、沢山あるよう見せかけるにも使われているようだ。
錯覚は、人間は見たものを理解しようと、対象物の中にパターンや規則性を探そうとするらしい。その場合、脳は隠れていて見えないものや状態であったり、矛盾したあり得ない物や状態を勝手に繋げて、あり得ると判断してしまう、パレイドリア現象というものがあるらしいが、家庭連合が信徒に向けて行っている行為は、錯覚を利用した、無いものを恰もあるように見せている組織ぐるみの行為であり、言論の自由はおろか、信仰の自由までも奪うものであり、思考の自由までも奪おうとしている。
お父様は、堕落人間が神様に帰ってゆくプロセスに、愛(情、心情)を中心に八段階の階層を定義された。目に見えない世界には、明確な境界線があるわけではないが、霊的無知に陥ってしまった堕落人間に分かりやすく、概念として階層的な境界線を明確に定められ、因果と相関の関係を駆使し、経験的に実証的に八段階を歩まれた。このような目に見えない精神世界や、霊的世界の階層的概念は、仏教においては紀元前からあり、キリスト教においてもグノーシス派の教えは、初代教会よって信仰に基づかない、理知と理性をもとに、神様を体感的に知識で捉え、これを救済としたので異端とされたが、霊と肉に境界線を定め、霊は肉よりも神聖なものとして、原理から観れば偏りはあるが、キリスト教的階層性を定めたと言えなくもない。
現代では、例えば、アメリカの精神科医デヴィッド・R・ホーキンズ博士が、意識の階層化を行っている。これは私の個人的感想の類だが、お父様が霊肉を一元的に説明できる真理を解明されたので(恐らく神学や哲学、思想分野からは”還元主義”と批判されるだろうが)、私たちは、今まで異端視されていた霊肉界を因果と相関の関係性で、原理的合理性を通して、これらの説に踏み込むことができると考えている。
その上でお伝えしたいことは、韓鶴子氏には上述したお父様によって明確化された霊肉界の階層性を土台にしてみた場合、お父様と一体化した場合のみ縦横の八段階を完成することが出来るが、お父様の勝利された守りが無い場合、カイン圏に出かけて行き、カインを屈服してはじめて、縦的な階層を一段階上ることが出来る。その時カインの前で、カインの無慈悲な攻撃にさらされながら屈服することはそう容易ではない。しかし、その時が、ご自身を客観的に推し量れる、「悔い改め」や「超越論的思考」、「反省」が出来る、キリスト教ではメタノイア(悔い改め)により視座がかわり、自身の思考が変わることがある。しかし自己を疑わず、固定化し、全てを平面的に二次元的な世界理解に留まり、貴方を未だに「真の母」と疑わずにいる人たちを、誤った方向へ導いているという問題点を指摘したい。ペンローズの三角形のように、お父様とは違う心の階層位置に着座し、悪神を主体にした妄想を神と仰ぎ見た偶像崇拝は、これは実現不可能な妄想だということである。
もし仮に韓鶴子氏の法廷証言が正しいとしたら、原罪を持って生まれた人物が、真理を解くことが出来るのだろうか、語る内容ははたして真理なのだろうか。私が韓鶴子氏の法廷証言「韓鶴子氏無原罪」説を批判すれば、すかさず教会組織関係者なのか分からないが、お父様のみ言(「祝福家庭と理想天国(Ⅰ)」の一部み言)で反証してくる。そこで、皆さんにお気付き頂きたいことは、このペンローズの三角形は虚構であり、錯覚を使ったトリックであるということである。重要な部分は覆い隠し、皆さんの脳が勝手に描くイメージを巧みに利用したものだということである。
韓鶴子氏は:お父様原罪ありを主張し(2019年法廷証言)お父様のメシヤとしての立場を否定する➡お父様は:天地人真の父母様勝利宣布しメシヤとして完全勝利➡教会関係者は:韓鶴子氏が原罪ありと認定したお父様のみ言を使って韓鶴子氏無原罪を主張し擁護する➡韓鶴子氏は:お父様原罪ありを主張し(2019年法廷証言)お父様のメシヤとしての立場を否定する➡お父様は:天地人真の父母様勝利宣布しメシヤとして完全勝利➡教会関係者は:韓鶴子氏が原罪ありと認定したお父様のみ言を使って韓鶴子氏無原罪を主張し擁護➡韓鶴子氏は:お父様原罪ありを主張し(2019年法廷証言)お父様のメシヤとしての立場を否定する➡お父様:天地人真の父母様勝利宣布しメシヤとして完全勝利➡教会関係者:韓鶴子氏が原罪ありと認定したお父様のみ言を使って韓鶴子氏無原罪を主張し擁護➡韓鶴子氏:お父様原罪ありを主張(2019年法廷証言)お父様のメシヤとしての立場を否定する➡お父様:天地人真の父母様勝利宣布しメシヤとして完全勝利➡教会関係者:韓鶴子氏が原罪ありと認定したお父様のみ言を使って韓鶴子氏無原罪を主張し擁護➡無限ループする。
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